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ラカン入門 その3

哲学

以前の記事まとめ:

ラカン入門 その1 - Expliquer

ラカン入門 その2 - Expliquer

 

欲望について考えてみよう。欲望は欲求とは異なり、言葉を扱う人間固有のものである。赤ん坊にはまだ欲望は存在せず、生体的な欲求しか存在しない。赤ん坊は欲求が高まった時、泣き声を上げるがこれは生体的な緊張が高まったために起こる反応であり、それはまだ言葉ではない。そもそも赤ん坊にはその泣き声が自分のものかどうかすらわからないはずだ(まだ自我が存在しないから)。しかし、その泣き声は結果的に母親に対する要請となり、母親は自分の満足を満たす印になる。これが繰り返されることによって初めて、赤ん坊は自分の泣き声が母親の現前に対する要請になっていることを理解する。

このことをラカン用語を使って説明してみよう。まず、赤ん坊の生体的な欲求は現実界のものである。それらを赤ん坊は泣き声であったり、もう少し成長すればおねだりのような要請によって満たそうと試みる。この「要請」は言葉であるから、象徴界のものである。つまり、現実界の欲求を象徴界の言葉によって満たそうと試みるのである。しかし、これは実は不可能である。例えば子供は母親に色々なおねだりをする。これに対して母親は、ただ機械的に対応したとする。これを続けると、子供は食欲不振に陥ったり、おねだりをやめてしまうことがある。なぜならば、子供が母親に要求しているのは愛情であり、本当はただ優しく頭を撫でてあげれば子供は満足する、という場合があるからである。このように、言葉による要請は行われるが、それは得てして言葉通りのものを要求しているのではなく、本当に望んでいるものは言葉によっては表現できない何ものかであったりするのだ。まるで面倒くさい女のような話であるけれど(冗談です)、そのことからわかる通り、このような事態は決して珍しいことではない。例えば「自発的な愛」は要請によって得ることはできないだろう。なぜなら要請してしまったならばそれはもはや自発的な愛ではなくなってしまうからだ。

欲望とは、このように欲求と要請の間のズレを埋めようとするものである。欲望は言葉による要請と関わるからこそ、冒頭で述べたように人間固有のものである。これは深く考えると、言語がパフォーマティブな側面とコンスタティブな側面を持つというこの二面性とも大きく関係があるであろうことは理解できるが、それは少し難しい話であるし、ラカンの図による説明はよくわからないので今は深入りはしない。

 

次に、子供は母親の愛をうまく獲得することができたとしよう。つまり、子供は母親の愛情の対象となることができたということである。しかし、母親はもちろん家事や買い物などやらなくてはいけないことがあるから、常に子供の前に母親がいる訳ではない。すると、子供は母親の不在に対して疑問を抱くようになる。「母親には自分とは別に愛情の対象がいるのではないか」という考えを子供は持つようになる。この疑問に対する子供の答えがいわゆるファルスとなる。そしてこれによって子供と母親とファルスという想像的三角形の関係が生まれる。子供は、母親の愛を独占するために、このなにやらよくわからないファルスに同一化しようと試みるのだ。

ただし、母親の欲望というのは実は「無」である(これはまだ深く考えなくて良い)。となると、子供は無に同一化しようとすることになり、これは極めて危険なことである。その危険を回避するために、父親の次元が必要になってくる。父親は子供が母親のファルスになることを禁止する。これがいわゆる去勢脅迫である。もちろんこれは子供にとって苦痛であるが、避けるべきではない重要な苦痛である。これによって子供は母親のファルスに同一化することを諦めることができる。男の子であればそれは自らのファルスを保持し、父親を理想として父親に同一化しようと思うことになる。女性であれば父親に愛されることによって、父親のファルスに同一化しようと思うことになる。いずれにせよ、ポイントは去勢脅迫によって厳格な法を持つ父親に目を向けることになり、それによって超自我が生まれ、気まぐれな母親の法に振り回されることがなくなるということである。

 

ここでいう母親や父親というのは文字通りに受け取るべきではなく、メタファーだと考えるべきであろう。つまり母親の代わりは保母でも良いだろうし、父親も文字通りの父親である必要はない。そのように考えると、父親の役割というのは「父性隠喩」と呼ぶことができる。子供は「子供と母親とファルスという想像的三角形」に巻き込まれ、このような闘争的な想像界においては非常に苦しむことになる。父性隠喩は象徴界による法の統制をもたらすことになり、それによって生きるための軸を得ることができるのだ。逆に、父性隠喩を失ってしまうことは神経症などの原因にもなり得る。そのような意味で、これは非常に重要なものであることを強調しておく。

 

これらの話は最終的に「主体」の話につながる。主体というのは人間が象徴界という言語の世界に突入することによって生まれる。しかし、この世界にはひとつの問題がある。主体は自らを表すシニフィアンを持たない。これはイメージとしては、主体を人間の中心的な統一者として見なすこととは反対に、主体とは玉ねぎの皮のように中身は何もなく、その層を一枚ずつ剥いでいったら、後には何も残らない、そのような者として見なすことである。つまり、主体は自らが何者であるかは知らないということであるし、先ほど言った母親の欲望は無である、ということにもつながる。とにかくこの無知、あるいは知の欠如が主体の本質であり、これを満たすことはおそらく構造的に不可能なはずである。それゆえに、主体あるいは人間は例えば芸術活動を続けるだろうし、それは永遠に終わらないはずである。あるいはそれがいつの日か終わるのであれば、その時人間は自らを完璧に表すシニフィアンを見つけていることになる。

 

大雑把だが、以上がラカンの初期の思想のあらすじである。なぜラカンの記事だけこのような口調になってしまうのかは不明だが、「死(タナトス)の欲動」など興味深いテーマはまだあるので、いずれ続きを書くかもしれない。