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子供の涙

哲学 道徳

今回の話の根底にあるのは、価値に関する話です。価値観というのは僕たちにとって一番重要な判断基準です。合理的に考えるならば、僕たちは基本的により価値があると思うことから優先的に行動するべきでしょう。しかし世における常識的な価値観は多くの場合粉飾されています。その結果、僕たちは正しく合理的に行動することができていないのではないか、と思うのです。今回はそれを明らかにしてみるつもりです。

まず、僕はいわゆるhumanitarian(人道主義者)の粉飾に対していくつかの批判を行うことができます。彼らは「人類を愛する」と宣言する。なるほど、それは素晴らしいことであるし、僕だってそのように感じることはあります。しかし、僕たちが「人類を愛する」と宣言する時、「人類」という言葉はきわめて抽象化されています。そして抽象化された「人類」を愛することなんて容易いことであるし、それは無知によるひとつの思い込みにすぎないのです。本当に難しいのは、「人類」の本性を見つめた上で「人類を愛する」と宣言することです。

人類の本性の一つに残虐性があります。例えばある人間はわざわざ母親の前でその子供を殺し、人の耳を壁に釘付にして一晩おいてから銃殺し、言葉を覚えたばかりの子をあらゆる手段を使って虐待します。このような凶悪な事件に対して人々は「こんなのは人間のすることではない」と非難しますが、これを聞くたびに思わず笑ってしまうのは、これがあまりに皮肉だからです。この非難は全く的外れで、「こんな残虐なことをするのは人間以外にいない」のです。動物にはこんなひどいことを思いつくことすらできません。彼らにできるのはただ単純に攻撃することくらいでしょう。このような残虐な事件は、人間にしか行うことができないという観点から見ると、むしろ「きわめて人間的」な事件なのです。

もちろん、そのような残虐さを理解した上でも人を愛することはできるかもしれません。しかし、それはあたかも対岸の火事を見ているような愛のように思います。もしもあなた自身が、あるいはあなたが愛する人が、そのような残虐な事件に巻き込まれてしまったとして、それでも本当にその犯人を愛せるのでしょうか?

 

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さて、ここまでの話は人道主義者に対する批判でしたが、これは政治家や実業家や医者に対してもある程度当てはまります。「国民のため」「クライアントのため」「患者のため」と宣言することはもちろん良いことだと思いますが、ここでも重要なのはそのテーゼはむしろ国民、クライアント、患者に対する無知から生じているし、それは人道主義者と同様のきれいごとである、ということです。なので、この批判は僕たち全員に関係するものである、ということに注意していただきたいです。

 

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ここから先は、「僕」に対する2種類の反論を想定してみます。ひとつは「それでも人類(あるいは国民、クライアント、好きなように言い換えてください)を愛することができる」というものであり、ふたつめは「人類を愛することはできないが、人類のために何かをすることは使命である」というものです。僕はこれらの両方に対してたったひとつの批判をお返しすることができるし、それはやはりこれらの反論が「抽象性」に頼っていることに対するものです。

さっきから「抽象性」という言葉をむやみに使っていますが、抽象性に頼る愛とは何なのでしょうか?逆に考えてみましょう。「抽象性に頼らない愛」はあるのでしょうか?それは子供、特に不幸な子供に対する愛情です。不思議なことに、僕たちは大抵の場合それがどんな子供であっても、たとえ醜くても意地が悪くても、その子供を愛することができます。あくまで「比較的抽象性に頼らない」、つまり具体的な対象としても子供を愛することができる、という限りのことですが、このような傾向は確かにあると思います。

どうして具体的な対象としての子供を愛することができるのか、というのはなかなか難しい問題なので今回は触れないでおきましょう。僕が言いたいのはそのような「無知によらない愛」、つまり抽象性に頼らない愛というのは、「無知による愛」、抽象性に頼る愛よりも価値があるのではないか、ということなのです。

カラマーゾフの兄弟」におけるキリスト批判もこの視点に基づいています。さっきの僕に対する反論に戻りましょう。まずはじめに、「それでも人類を愛することができる」というキリスト的な愛による反論に対して。世の中には僕たちの想像を超えるような、まさに地獄のような経験をしている子供が何人もいます。彼らはどうして自分たちがそのような目に合わなくてはいけないのか理解もできず、ただ涙を流して「神ちゃま」に切願するでしょう。この子供の涙を僕たちは必要な犠牲だと考えて、彼らを徹底的に虐待するような者ですら愛するべきなのでしょうか。僕はそれはおかしいと思います。はっきり言って、この子供の涙よりも価値があるものなんて世の中にはないんじゃないかと思います。そしてそれは子供に対する愛が、無知によらない、真正な愛だからです。少なくとも抽象化され粉飾された愛を、僕は信じることはできません。

そして、「人類を愛することはできないが、人類のために何かをすることは使命である」という二つ目の反論に対して。僕には理解ができないのですが、どうしてどこの誰とも知らない馬の骨に対して何かをすることが使命になり得るのでしょうか?百歩譲ってそれが使命になり得たとしましょう。しかしそれよりも価値のある、やるべき使命はいくらでもあるのではないでしょうか?少なくとも現実における子供の涙よりも、未来のよく知らない誰かさんの満足のために何かをやることがより価値があるとは思いません。未来の子供のため、というならまだわかるのですが。

 

誤解しないでいただきたいのは、「国民のため」…になにかをする人の足を引っ張りたいということではなく、僕はただそのテーゼが「無知によるもの」であるという観点から疑問符をつけたいだけなのです。さらに言えば僕はそれよりも価値のあるもの(つまり子供の涙のようなもの)が存在するのではないか、と言いたいのです。

そして 猿とバナナと多様性 - Expliquer で述べたように、たとえ子供が涙を流さないことに価値があったとしても、それを直接求めるべきですらないかもしれません。国民のため、人類のため、クライアントのために何かを努力して行うことが、リンゴ効果として子供の涙をよりよく防ぐことにつながるかもしれません。しかし、最終的に求めるもの、価値があるもの、つまりバナナは何であるのか。これに関する議論はもっともっとあっても良いと思います。

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