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悪口とユーモア

哲学

全てのユーモアが悪口と関連があるというつもりはありませんが、現代の多くのコメディアンは、日米を問わず、悪口と密接な関わりを持つことは指摘できると思います。日本で言えば代表的な芸人は有吉ですが、他の芸人も悪口や「いじり」によって笑いを取ることは多いです。また、海外のコメディアンも、僕が見る限り(一理あるにせよないにせよ)悪口を利用している場合は多いです。

どうしてそのような現状になっているのか?まずはじめに、ユーモアと悪口はくっつきやすいという事実があります。哲学者のアンリ・ベルクソンが指摘する通り、あえてユーモアの反対物を指名するならば、それは「優美さ」ということになり、ユーモアはその反対の「不格好さ」ということになると思います。そして優美さは賞賛と結びつきやすく、不格好さは悪口と結びつきやすいので、このような現状はある程度仕方のないものだろうと思います。(もしも賞賛によって笑いをとったならば、おそらくそれは皮肉だからです。なので皮肉な賞賛も悪口に分類していいと思います。)

しかし、もう一つの原因があるとすれば、それはコメディアンではなく大衆にあると思います。大衆に受けるユーモアというのは分かりやすくなくてはなりません。高級なユーモアよりも低級なユーモアの方が大衆には受けるのは、そっちの方がわかりやすいからです。例えばねずっちの(ちょっとだけ)知的な謎かけは、拍手は受けても笑いはほとんど取れません。一方で、有吉が「(先輩芸人の名前)とかけまして、玉ねぎの皮と解きます。そのこころは、どちらもゴミくずです。」と言った時の方が大爆笑をとっていて、ちょっと興味深いなと思いました。有吉の発言が面白いのは、もちろんそれがうまい謎かけであるからではないし、また謎かけのルールを無視しているから、というのも本質ではありません。それはただただ悪口であるから面白いのです。

 

それでは悪口とは一体何者であり、それはどうして面白い場合があるのか?まず悪口を定義するならば、僕は「表層的偏見」になるだろうと思っています。表層的というのはひとつ重要なポイントです。例えば最新のファッションなんかは嘲笑の的になることが多いですが、その根底にあるのはファッションに対する「無理解」です。もちろんファッションに理解のある業界人が笑ってしまうこともありますが、その人も笑ってしまうその瞬間には、ファッションの奥深さや意味するところを忘れ、むしろそれを忘れることによっていかにそのファッションが滑稽に見えてしまうかに気がつくことによって笑ってしまうのです。

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また、偏見であるというのは、悪口が真実である必要はないことを示しています。しかし一方で、偏見である以上「悪意のある見方をすれば確かにそのように見える」ということも示しています。

これらが「悪口」の本質だろうと思います。このことから分かることは、他人の言う悪口は全く真に受ける必要がないということです。また、この時点でようやく「悪口」と「批判」を区別することができるようになります。批判は悪口と対照的で、それは「本質的」であるべきであり、「偏見」であってはならないということになります。なので、批判は聞く耳を持つべきだと思いますが、悪口は全く聞き入れる必要はないだろう、と僕は思います。

 

悪口は笑える場合もあるかもしれませんが、僕はこれに真面目に関わるのはやっぱりやめとこうと思います。そのかわり、批判はできるようになりたいです。そのためには、もっと深く物事を見なくてはならないだろうと思います。頑張ります。

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