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おもちゃの蛇

哲学

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この動画は本当にしょうもないはた迷惑な行為ですが、ちょっと興味深い部分があります。ここで蛇のおもちゃを見た人は、反射的にそれから逃げようとします。そうすると蛇のおもちゃはその人と糸でつながっているので、逃げようとすることによって動き出してしまいます。なので、本人はまるで本物の蛇が追いかけてきたように感じます。言われてみればなんてことのないことですが、このトリック自体はなかなか興味深いものです。

なぜかというとこれはとても隠喩的だからです。その点を踏まえて、このトリックの構造を一般化してみましょう。要するに、ある人が「蛇のおもちゃ」に対して反射する(この場合逃げ出す)ことによって、その人と蛇のおもちゃが何かしらの「糸」によってつながれているならば、まるでおもちゃが「本物の蛇」のように動きだすように見えてしまう、ということです。キーワードは「蛇のおもちゃ」「糸」「本物の蛇」の3つです。これはもちろん古いトリックですが、後ほど触れるように現代的にも考える意義がある問題です。でもまずは古いトリックとしての働きを具体例で説明してみます。隠喩的な説明になりますが、これを理解するポイントはとりあえずその隠喩を飲み込んでしまうことです。嫌だったら後で吐き出せばいいのですから。

僕が思うに、日本の民話(昔話?)というのはおそらくこのトリックが関係しています。例えば河童というのは柳田國男遠野物語でも有名ですが、これもことの発端はおそらく、川沿いで遊んでいた子供が行方不明になったとか、誰もいない川辺で視線を感じたとか、そういう些細なことだと思います。このような事実は今のところ「蛇のおもちゃ」でしかありません。しかし、その経験をした人はそれを周りの人に話したりするでしょう。これがその人の「反射」です。これによって実はそれは河童の仕業じゃないか、という想像が生まれます。この想像力がいわゆる「糸」です。これによって、この話を聞いた人が川辺で休んでいて、妙な気配を感じたとすると、この糸(想像力)によってその気配は河童、つまり「本物の蛇」のように見えてしまいます。ちょっと強引に感じるかもしれませんが、とりあえずこれは飲み込んでみてください。

それで、現代においてはもちろんこのように河童の話はトリックによる錯覚に過ぎない、と説明できてしまいます。僕たちは昔の日本人よりもいくらか冷静なので、慌てて反射するのをやめて、客観的に観察してみようとします。そうすると実は「本物の蛇」は「おもちゃの蛇」に過ぎなかった、ということが分かります。そして僕たちは現実主義者になり、想像力という「糸」を断ち切ります。そうすればもはや「おもちゃの蛇」は完全に静止します。これ以上僕たちの反射に応じて動き回ることはないからです。

注意してほしいのは、僕は別に糸を断ち切ってしまったことを批判したい訳でもないし、それを肯定したい訳でもありません。僕はこの一連の「ストーリー」に興味があるだけです。そしてこれをひとつのストーリーとして眺めると、ちょっと感傷的になってしまう自分がいます。子供は小さいうちはよく人形とかで遊んだりしますが、大人になるとちょっとずつ関心が薄れていきます。これは多分人形が「蛇のおもちゃ」に過ぎないということがわかってくるからです。もちろん、人形に興味を持ち続ける人もいます。でも彼らもやっぱり「糸」を一度断ち切っているはずです。その上で別の「糸」を紡ぎ出して、彼らはそれによって遊んでいるのです。でもその新しい糸は人工的なものです。それは僕たちが映画を見る時に使う糸です。映画を見る時、僕たちはそこに登場する俳優を見るのではなく、俳優が演じる役をみます。僕たちは「ジャックスパロウ」は本当は「ジョニーデップ」であることを知っていますが、そのことを一旦忘れて、「ジョニーデップ」を「ジャックスパロウ」と見なします。映画を楽しむために、わざと自分をそのように騙すのです。この騙しが僕たちの新しい糸です。

でも、昔の日本人の使っていた「糸」は本質的にこれとは異なります。それは天然のものであり、新しい糸のように「自分たちが楽しむために作り出した糸」とは全然違うのです。このように、もともとあった糸を断ち切り、それを再構築するというストーリーに対して僕は感傷的になるのです。これは一度死んでしまった愛犬をロボットとして蘇らせるようなものです。そのロボットは、かつての愛犬と全く同じ姿をして、全く同じ反応をするかもしれません。少なくとも客観的に見れば、愛犬とそのロボットを区別することができないとしましょう。でも、僕たちはそれがロボットであり、本当は生きていないことを「知っています」。このストーリーが結構本質をついている気がして、そう考えるとちょっと物悲しいです。

僕は柳田國男遠野物語にはまっていたことがあります。遠野物語のすごいところは、あれは現代的な意味での「フィクション」とは違うというところです。彼らはおそらく本当に「河童」とか「座敷童子」を信じていたはずです。そのような意味で、もはや遠野物語は虚構的なフィクションではないのではないか、と僕は思います。遠野物語はかつての愛犬であり、生きていたのです。しかし、現代における物語はほとんどがロボットです。それは生きているように見えたとしても、本当は死んでいます。

これは僕のひとつの現代観です。でも、これ以外にもあるし、この続きもあります。現代でもちゃんと生きている物語があるからです。でも、それらは別の機会にまた改めて書こうと思います。

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