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(芸術、思想における)自由について

哲学 芸術

前回のアートについての記事が構造主義的(理論とかルールとか)であまりうまく説明しきれなかったので、もっとポスト構造主義的(というか構造主義の批判的)な考え方もしてみようと思います。

まず、自由とは何でしょうか?僕は「ルールに対して抵抗が生じないこと」と、ここまではちゃんと定義できると思います。この定義からすると、そもそもルールという概念が無いところには自由も不自由も存在しません。動物は(しつけとかしなければ)ルールの概念が存在しないので、自分は自由だとも不自由だとも感じません。

となると、自由の定義に含まれる「ルール」とは一体何なのかという話もしておかなければなりません。ルールとは僕は構造とか数学と同義語だと思います。あれ?と思うかもしれませんがちょっとお聞きください。なぜかというと、ルールというのは「~しなければならない」でも「~の時は…とする」でも、全部形式的になっています。というより、形式的なものがルールであるとも言えます。なのでルール=形式であり、数学とか構造とかは形式のことに他ならないので、ルール=数学=構造です。

それで、もちろん一般的に想像するルール(法律とか)は社会的なものであり、これらは社会的な強制力があり、ただの形式とか構造にすぎないと言うと違和感があると思うのですが、今回は特に芸術とか思想などの話をしており、これらの自由は社会的にも保証されているので、社会はあんまり関係ないと思ってください。ルール=構造と考える時、そこに強制力は一切ありません。

それと、言葉のルールとかは構造的に捉えられないのにルール=構造としていいの?というのは鋭いご指摘です。これはまた後ほど触れます。正確には、自由が抵抗を感じるのはルールの構造性である、ということになります。

さて、そうなると自由とは「構造そのものに対して抵抗が生じないこと」になります。そして僕はこれが自由の本質だと思うのです。構造っていうのは、それはもうガッチガチに強固なものです。悪く言えば頭の固い、柔軟性のない考え方です。さらに以前言った通り、構造主義では世界について全然説明しきれないというのも事実です。なので、構造に対して抵抗感を感じるのは自然なことですし、僕もかつてはちょっとした嫌悪感(疑惑?)を抱いておりました。そうすると「もっと自由を!」という気持ちになってきます。

しかし、構造主義っていうのは全然完璧ではないのですが、これは素直にひとつの重要な意見として聞き入れるべきであり、抵抗感はなくすべきです。例えば「幸福を数値で表すなんてもってのほかだ!」と怒りたくなる気持ちは分かりますが、でもアンケートとかで幸福度を一応測っておくのはすごく重要なことです。なぜならこれは客観的だからです。「幸福は数値で表せない」というのは正論ですが、でも客観的に見ようとすることは実際問題としてかなり役立ちます。

もののついでに言っておきますが、僕は構造主義が第一である、と言っている訳ではありません。むしろ人生を「勝ち負け」みたいに安易に二元化するようなことは大嫌いです。「構造主義至上主義者」は反省してください。でも、客観的な基準による「勝ち負け」は、たとえ認めたくない結果だとしても、ちゃんと受け入れるべきです。「ま、負けたけどそれが全てじゃないしな」とクールに構えて生きていきましょう。

脱線しすぎました。自由についての話です。自由は構造に対するただの抵抗感なので、それをなくせば自由とか不自由とか、そもそも気にしなくなります。逆に、自由を強く意識する時とは、構造に対する抵抗が強く生じた時だと思います。となると、僕の予想を言えば、自由を強く主張する人たちはこれからどんどん増えて行くと思います。なぜなら人工知能にしろSNSにしろ全部構造主義だからです。facebookとか正直ふざけていますよね。人間関係を勝手に「 友達か友達じゃないか」の0か1にして、友達のネットワークがどうだこうだ言っておりますが、「友達ってそういうもんじゃないだろ」とつっこみたくなります。でも、「facebookはどうせ構造主義で、それが全てじゃないよな」とさりげなくつぶやいて、クールにやりすごしましょう。

さて、最後にアートの話に戻ります。長くなってすみません。それで、僕はアートはあんまり構造的な意味でのルールとは関係ないんじゃないかな、ということが言いたかったのです。前回の話とは正反対の意見ですね。ルールとかそういう次元の話は関係ないので、アートは自由ともそもそも関係ないんじゃないかな、と僕は思います。これはポスト構造主義者としての感想で、前回の記事が無意味という訳ではありません。芸術にも構造主義で説明できる部分はあります。でも、それで説明しきれない余剰は多々あります。

じゃあどう説明するか?ポスト構造主義関連の話は以前したことがあるのでこの辺の記事だけ貼っておきます。一言で言っちゃうと、芸術のルールは事前にあるのではなく、芸術を生み出した事後的に見出されるものである、ということです。例えば言葉のルールとかって、事前に存在するものではなくてどんどん変わっていく(事後的に見出される)ものですよね。そういう意味で前回のようにルールが事前的にあるという話は、ある意味倒錯です。その批判は免れません。

そして先ほどルールは構造的じゃないよ、と指摘してくださった方。確かにそうなのですが、むしろ自由とはルールの構造性に対する抵抗のことであり、ルールを構造としてみなしてしまうが故に感じる感情のことです。しかもそもそもルールが構造でないと言い切ってしまうと、ルールの意味がよくわからなくなってしまいます。なので正確には、自由とは「ルールの構造性に対する抵抗」というべきなのでしょう。

下の記事は気が向いたら読んでみてください。言語がなぜ構造的じゃないのかは理解できると思います。

futsaludy.hatenablog.com