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アートについて

芸術

よく親は子供にこんな矛盾したことを言います。「悪い友達と付き合わないこと。勉強をちゃんとすること。ルールをちゃんと守りなさい。でも、ルールを守ってばかりじゃダメだから、たまにはハメを外しなさい。」言いたいことはなんとなく分かりますよね。でも、これを聞いた子供は困っちゃいます。ルールをちゃんと守れば親の言うことを聞いたことになるのでしょうか?それともたまにはルールを破った方が親の言うことを聞いたことになるのでしょうか?

僕の考えでは、この不可能性を体現することが真のアートの1つの条件だと思います。それは一体どういう意味でしょうか?順序よく話していきましょう。

 

まず、もしも子供がルールを守ったなら、彼は学者になります。例えばモンドリアンは、「水平と垂直の直線のみによって分割された画面に、赤・青・黄の三原色のみを用いる」というルールを守りました。この意味では、彼は芸術家というよりはむしろ美学者です。ある明確な理論の下、美しさを追求した、という観点から見たら、という話です。これは自然科学の学者がある明確な定義や仮説の下、論理的に真実を追求するのとほとんど同じ構造をしています。

 

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一方で、もしも子供がルールを破ったら?アートの文脈で言えば、これは何度か話に出てきているマルセルデュシャンが良い例です。彼は既製品の便器をアートだと宣言しました。これは従来の芸術のルールを破るものであり、芸術の可能性を大きく広げたという意味ではとても価値があります。僕はこのようにルールを破る人を創造者と呼ぶことにします。ただ単に創造者であるだけでは真の芸術家とは呼べるはずがありません(昨今のコンセプチュアルアートではこのあたりが混同されていますが)。

 

しかし、真の芸術家とは学者でありながら創造者であろうとする者のことを指すべきだと僕は思います。これは言語化してしまうと不可能のように思えます。しかし、あの親が矛盾しながらも子供になってほしいと願う姿は、確かに僕たちでも想像することができます。あの矛盾した親の理想の子供こそが、芸術家が目指す姿なのです。何度も言いますが、これは言葉で表現することはできません(言葉にすると矛盾してしまいます)。

 

真の芸術家は学者でもあるので、とても理論的です。僕の考えでは、デュシャンはこの点が甘かったんじゃないかと思います。まず、既製品の便器には理論的に美を追求した形跡が全く見られません。なので僕はあれはただの創造であってアートではないなと思うようになりました。

 

真のアーティストとして一人名前を挙げるとしたら、僕はセザンヌが間違いないと思います。彼が理論的であることは論をまたないです。では彼は創造者なのだろうか?僕はそうだと思います。なぜなら彼は同時に彼の理論に縛られていないからです。

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理論的でありながら理論に縛られていない、それを守っていないとはどういうことか?これは理論とかルールという言葉を使ってしまうから生まれる矛盾です。でも、本当は矛盾なんてしていません。言葉を超えたところに、芸術家はちゃんと矛盾なく存在します。なぜなら、親が理想とする子供の姿は矛盾なく実在するからです。

なかなか難しいですが、この意味で芸術家は定義できるのかもしれません。今後の考察に期待します。

 

注:例えば新しいルールを作って、それを守るようにする、という解決案を思いつくかもしれません。でも、これは実は意味がないです。なぜなら新しいルールに忠実であれば彼はただの学者になってしまうからです。今度は同時に創造者であるために新しいルールを破らなくてはならなくなります。この議論は無限に続いてしまいます。

 

注2:これはゲーデル不完全性定理と関連があるかもしれません。

つまり、今の理論では証明も反証もできない(ルールを守っているとも破っているとも言えない)。

新しい理論で証明/反証できる可能性はもちろんあるが、コンピューターが認識できるレベルの新しい理論では証明も反証もできない場合はあり得る(ルールを守っているのか破っているのかを決定できない)。

やや発展的な話ですが。

 

注3:もう一つの論理的な答えは、親の前ではルールを守っている。でも、親の気がつかないところで暗にルールを破っている。というものがあります。

これはこれで正しいと思います。セザンヌは理論通りに絵を描いているが、暗に理論を破っている。そう言えなくもないでしょう。

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