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A=Bはメタファーである

哲学

ⅰ)言語行為論というものがあります。例えば僕が「僕はあなたと結婚している」と言ったなら、結婚が成立しているならそれはただの報告であり、結婚が成立していないならば嘘になります。一方で、もしも僕が「僕はあなたを僕の妻にする」と言ったならば、まさにその発言によって僕はあなたを妻にして、結婚を成立させることが可能です。前者のような事実確認的な言明をコンスタティブな言明と呼び、後者のように事実を成立させる言明をパフォーマティブな言明と呼びます。

これはある言明がコンスタティブまたはパフォーマティブのいずれかに属す、という話ではありません。あらゆる言明が、コンスタティブな側面とパフォーマティブな側面を持つのです。「僕はあなたと結婚している」という(コンスタティブな)言明は、「僕は結婚を報告した」という事実を成立させる、という意味でパフォーマティブになります。

 

ii) 「「名誉」という言葉をあなたがどういう意味で使っているのか、よくわからないわ」アリスが言いました。

  するとハンプティ・ダンプティは馬鹿にしたような笑いを顔に浮かべました。「もちろんわからないだろうさ、僕が説明しないかぎりね。僕は「もっともだと言って君が降参するような素敵な理由がある」という意味で「名誉だ」と言ったんだよ!」

「でも、「名誉」という言葉に「もっともだと言って君が降参するような素敵な理由がある」なんて意味はないわ」アリスは抗議しました。

「僕が言葉を使うときはね」とハンプティ・ダンプティはあざけるように言いました「その言葉は、僕がその言葉のために選んだ意味を持つようになるんだよ。僕が選んだものとぴったり、同じ意味にね」

「問題は」とアリスは言いました「あなたがそんなふうに、言葉たちにいろんなものをたくさんつめこむことができるのかということだわ」

「問題は」とハンプティ・ダンプティが言いました「僕と言葉のうちのどちらが相手の主人になるかということ、それだけさ

wikipediaより)

 

.........

さて、今回はA=Bはメタファーである、という言明を僕はしたいと思います。これはもちろん、前回のA=Aはトートロジーか?という記事とほとんど完璧な対をなしています。なので、簡単に前回の振り返りをしておきましょう。

まず、前回のA=Aの真理性は、Aの意味に応じて決まる、という前提がありました。僕たちは色々な意味を考えて、A=Aという一見当たり前な命題の真偽を考えてみた訳です。これを簡単に図示すれば、次のようになります。

意味→真理

しかし、今回は全く逆の見方をしてみましょう。つまり、今度はA=Bという真理性によって、AとBの意味が定まる、ということです。

真理→意味

これは最初は受け入れがたい考え方かもしれません。しかし、以前マルセルデュシャンの「泉」という作品の話をしました(この記事です脱構築 - Expliquer)。ここではデュシャンが「私の作品(泉)は芸術である」というA=Bの形式の言明をしたことに他なりません。ただしA=私の作品であり、B=芸術です。

当時の芸術界はこれを真理として受け止めました。これによって、A=デュシャンの作品は芸術性という意味を獲得し、B=芸術はより広範な意味に変わりました。よって、ここではA=Bを真理と受け取る→その真理を満たすようにAとBの意味が変容する、という見方は確かに成り立っているのです。

これを別の言葉で言えば、A=Bはパフォーマティブな言明として機能した、と言えるでしょう。つまり、A=Bと言明すること、それ自体によって、A=Bが成立したのです。しかしその前に、A=Bのコンスタティブな側面にちょっとだけ触れておきます。

前回同様に=と==を定義すると、A==BというのはAとBが異なる記号である限り成立することはあり得ません。それぞれに異なる意味を自然に割り当てることが可能なので、当たり前ですね。それではA=Bはどうなんでしょうか?理論上、これは可能です。AとBに同じ意味を割り当ててあげれば良いからです。しかし、ここで僕たちはハンプティーダンプティーの言葉を思いださなくてはなりません。

「僕と言葉のうちのどちらが相手の主人になるかということ、それだけさ」

”実際問題として”、僕たちは本当にAとBに同じ意味を割り当てることができるのでしょうか?つまり、僕たちは言葉に対して主人になり得るのでしょうか?必ずできる、とは限りません。僕はこのことを”理論上は可、しかし実際は不可”と表現したいと思います。

これは僕がA(なんでも良いです)というものを指さして、「Aは芸術である」と言うことが”理論上は可、しかし実際は不可”であることから理解できるのではないかと思います。あらゆるAは理論上芸術になり得る、しかし、実際には芸術にはならない。

僕はこのことをこんな風にも表現したいです。あらゆる命題は、理論上、A=Bであると言明することによって、A=Bを成立させうる。いや、A=Bは成立するのですあるいは、A=Bが真理になるようにAとBの意味を変えることが、理論上は可能である。いや、パフォーマティブな言明によって、そのようにAとBの意味は変わってしまう。そのように考えてみてください。

ここで、AとBの意味を変えてしまう効果をXとおきましょう。

残念ながら、実際にはA=Bは成り立たないかもしれません。なぜなら、この言明の聞き手は、Xを認識できないかもしれないからです(いや、この発言者すらXを認識できていないかもしれません!)。つまり問題はA=Bが成り立たないということではなく、A=Bを成立させるXを認識できないことが問題なのです。もちろん、デュシャンの例では、Xを認識できました。そして僕が「Aは芸術である」と言った時、デュシャンの泉と同じように、Aは芸術になるのです。ただし違いは、僕が言った場合はそのXを認識できないということ、それだけなのです。

僕はここで、A=Bはメタファーである、という言明を改めてさせていただきたいと思います。しかし僕はメタファーの意味についてここで深く検討するつもりはありません(一応参考までに以前の記事を載せておきます隠喩について - Expliquer)。もうおわかりになると思いますが、この言明自体がA’=B’、ただしA’はA=B、B’はメタファー、という形をしています。これをパフォーマティブな言明とみなすならば、むしろこのA’=B’という言明によって、B’つまりメタファーの意味を変容させようというのが僕の試みです。B'つまりメタファーをA'のように捉えるべきだ、というのが僕の主張です。

しかし、先ほど申し上げた通り、僕はこれをここで深く説明するつもりはありません。ちょっとだけ説明しておくなら、デリダエクリチュールの引用可能性あたりの話とほとんど同じことを言っています。引用によって、エクリチュールの意味はどんどん変わっていきます。まさに「A=Bという言明」がデリダの「引用」に相当し、意味の変容はそのままです。なかなか面白い視点だと思うので、ぜひ参考にしてみてください。