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A=Aはトートロジーか?

哲学 数学

=という概念はアプリオリです。なぜなら、もしもある人が=の意味を知らなかったとして、僕たちは=が成立するものを何ひとつとして彼に示すことができないからです。「ほら、これとこれは同じでしょう」と僕たちが言う時、その人はいつだって違いの存在を指摘することができてしまうのです。この現実世界に同じものは何ひとつとして存在しないからです。

また、記号の反復可能性というのもアプリオリな認識です。反復可能性とは、例えば僕がある紙にAと書いたとして、あなたが別の紙にAと書いたとして、これらのAは記号として=である、という認識が可能である、ということです。これも、反復可能性を認めない人にはそれを説得することができないので、アプリオリである、という訳です。

さらに、=には2つの種類があることに注意しましょう。A=BとはAとBが「ある意味で同じである」ということにします。そしてA==BとはAとBが「あらゆる意味で同じである」、つまりあらゆる意味でA=Bである、ということにします。

 

さて、僕が関心があるのは、A=AとA==Aという命題です。A=BもしくはA==Bという命題は、AとBが異なる記号である以上、必ず「何かを語っています」。では、A=AもしくはA==Aという命題は「何かを語っている」のでしょうか?それともこれはトートロジーであり、全く意味のない命題なのでしょうか?

トートロジーである可能性はあります。なぜなら普通、「猫は猫である」みたいな命題は、ただ猫であることを強調しているだけで、何も新しい情報は語っていません。それに、パッと見てA=AもA==Aも、例外を見つけるのは簡単ではありません。

しかし、「何か新しい情報を提供する」という意味でA=AとA==Aが何かを語るケースはありえます!

A==Aに関しては、A==AならばA=Aなので、ある意味でA=Aが「何かを語る」ことを示すことができれば、A==Aは「必ず何かを語ります」。また、A=Aが「何も語り得ない」としても、A==Aは「何かを語る」可能性はあります。なので、A==AとA=Aがどんな時に何を語り得るのか、これを考えてみましょう。

まず、A=Aは記号の反復可能性を示しているに過ぎない、という意見があります。なるほど、これは左辺のAと右辺のAが記号として同じである(反復している)、という意味でA=Aである、とみなすことはできるでしょう。これではA=Aは実は何も語っていない、ということがわかります。なぜならそもそも反復可能性はアプリオリに前提としてしまっているので、これは「反復可能性が成立するなら反復可能性が成立する」というトートロジーになってしまうからです。

それでは、Aの記号のシニフィアンではなく、シニフィエの側面から何か考えることはできないでしょうか?

ここでA=Aのシニフィエの側面について、次の2通りに分析することができます。

①A=Aを(A)=(A)、つまり=を対称的な関係と考える。

②A=AをA(=A)、つまりAという主語が(=A)という述語を満たす、と考える。

まずは①の見方について考えてみましょう。このケースにおいては、実はA=Aが偽になる場合があります。これはab=abという場合です。ただしabの値は、もしもaが先に書かれた場合、つまり(a)bならばa、もしもbが先に書かれた場合、a(b)ならばb、ということにします。もしもab=abの左辺のabは実は(a)bで、右辺のabはa(b)だったとすると、ab=abは成り立たない可能性があります。これを一般化すると、もしもAが文法的に曖昧だったとすると、ある意味づけが存在して、その意味づけにおいてはA=Aではなくなってしまいます。

この命題の対偶を取ると、任意の意味づけにおいてA=A、つまりA==Aならば、Aは曖昧でない、ということになります。なので、A==Aは「Aが文法的に曖昧でないということを語っている」ことになるでしょう。なので、A==Aは何かを語っていました!よかったですね。

 

※一応、次のような議論は無効であることに注意してください。A=Aである、というのは、例えば=を次のように捉えると成り立たなくなってしまいます。A、Bは整数で、A=B はA+Bが0の時にのみ成立する。この時、A=Aは必ずしも成り立たない。なので、A=Aは自明ではなくなるので、Aは「何かを語り得る」。

これは=の意味を恣意的に用いているという点で誤りです。冒頭に書いた通り、=の意味はアプリオリに成立しているはずなので、このように=をアポステリオリに決定させるのは間違っています。A+Bが0の時、つまりA+B=0の時と言っている、この意味で=を使わなくてはなりません。

また、Aが多義的であるから、A=Aは成り立たない。例えばA=”What’s the difference?”とすると、Aは「それってどういう違いがあるの?」という違いを肯定するような意味と、「それって全然違いがないよね」という違いを否定するような意味の2つに取れるので、A=Aではない。ゆえにAは「何かを語る」。これはちょっとずるい気がします。なぜならA=Aという等式において、左のAの意味と右のAの意味を別々に考えているからです。僕が言った文法的に曖昧なケースであれば、A=Aという等式において1つの意味規則で考えて、なおかつA=Aでない場合というのを想定できます。微妙な差でわかりにくいかもしれませんが、一応断っておきました。

 

それでは、A=Aが何かを語るケースを考えてみましょう。これはA(=A)という見方をしてしまえば、明らかです。例えば、「造語は造語である」という文章は、全然トートロジーではなく、「「造語」という言葉は造られた言葉である」という情報を語っているからです。なので、A(=A)と考えれば、A=Aが何かを語るケースもあります。

まとめましょう。A(=A)とみなすのは、=が対称的でない、つまりA=BだとしてもB=Aとは限らない、とみなすことです。このように=の意味を少し緩めると、A=Aは何かを語ることができます。一方で、=はあくまで対称的だと言うならば、少なくともA==Aは何かを語ることができます。これが僕の今回の考察のすべてです。A=AもA==Aもおそらくトートロジーではありません。