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道徳について

哲学

あまり個人的すぎる話はしたくないので、これは「ニーチェと僕の道徳」だと思って読んでみてください。この道徳は、まず真理を追究することが善である、というところから出発します。しかし、世の中に絶対的な真理というのが存在するとは限りません。むしろ近代の哲学が発見したのは、僕たちの認識できる真理とは相対的なものでしかあり得ない、という衝撃的な事実でした(参考記事:論理的思考と創造的思考 - Expliquer )。この事実を踏まえて、ニーチェが生み出したのは「力への意志説」であり、僕の言葉で言えば「愛の理論」になります。

 

あまり前置きを長くしたくはないのですが、今回は哲学になじみのない方のために、先に申し上げておくべき注意点が二つあります。

一つ目は、あらゆる偏見を一度忘れて、あらゆるものが「疑わしいものである」と考えてみてください。テーブルの上にあるのはりんごではなく、りんごに見せかけた偽物かもしれない。1+1=2が成り立つのは、ただの思い込みかもしれない。僕たちが体験しているのは、現実ではなくてある種の夢なのかもしれない。あらゆるものは疑うことができます。しかし、だからと言って1+1=2ではない、と言っている訳ではありません。むしろ1+1はほぼ間違いなく2になります。ただそれは、思っているほど「絶対ではない」というだけのことです。

二つ目は、哲学とはあらゆる意味で役に立たない、ということを前提にしてください。哲学はただ純粋に真理を追究するものです。それが役に立つ可能性はもちろんありますが、それは哲学に期待するべきものではありません。それを期待して哲学を勉強したら、まず間違いなく後悔すると思います。

なんだか脅しのように感じるかもしれませんし、軽く哲学の記事を読むくらいは良い刺激になると思います。しかし、読めばわかると思いますが、今回の記事に至っては、あまり共感されすぎても困ったことになると思うので、そのあたりは自己責任でお願いします。

 

さて、脅しはこのくらいにしておいて、早速本題に入りましょう。いきなりですが、どうして「人を殺してはいけない」のでしょうか?公の場においては、このような疑問を持つだけで、色んな方面から非難が殺到しますよね。でも、少なくともこれに対して子供のように素朴な疑問を持つことは、僕は大事だと思います。ただし、先ほど言った通り、これは1+1=2と同じくらいほぼ間違いないことです。ただ、これは思っているほど「絶対ではない」というだけのことです。

これに対するありがちな答えは、「他人の命は他人の所有物であり、僕たちが勝手に奪っていいものではないから」というのが考えられます。なるほど、これは尤もらしい意見です。しかし、論理的に考えるとこれには二つの前提があります。「人の命はその人の所有物である」ということと、「他人の所有物を奪ってはいけない」ということです。まず、「人の命はその人の所有物である」というのは僕は前提として正しいと思います。しかし、「他人の所有物を奪ってはいけない」というのは、一考の余地があります。なぜなら「どうして他人の所有物を奪ってはいけないか」という疑問に対しては「それは他人の所有物だから」「他人の所有物を奪ってはいけないから」としか答えることができないからです。これはすなわち「どうして人を殺してはいけないか」という疑問に対して「人を殺してはいけないから」、あるいは「それは道徳的ではないから」と答えているに過ぎません。

また別の例を見てみましょう。「社会にとって役に立つことが善である」というのは美徳であり、もちろん価値があり、大切なことです。しかし、これも結局は「社会にとって役に立つことが良いことだから、善である」という循環論法を免れてはいません。それどころか、このような道徳の根底にあるのは、エゴイズムです。究極的には、これは「社会にとって役に立つことは僕にとって役に立つことだから、良いことである」と言っているに過ぎません。もちろん「僕にとって役に立つことではなくても、社会にとって役に立つだけでもそれは良いことだ」と思う人の方が多いでしょう。しかし、これは「僕」を「社会」に置き換えたエゴイズムに過ぎません。このようなことを語る人がいたら、僕は次のように指摘したいです。「あなたにとって、社会というのは大事であり、だから社会に役立つことは善なのかもしれない。しかし、社会を大事だと思わない人も世の中にはいますし、社会が大事であるなんて全然自明なことではありません。なので社会に役立つことが善であるというのはあなたが社会が大事だと思うことに由来するエゴに過ぎません」

僕はこのように、一般的な道徳が「絶対に正しい」と思っている人に対しては、たまに嫌悪感を抱くことがあります。それはエゴイズムを真理だと勘違いしている人への嫌悪感であり、そのような偽善に対する嫌悪感でもあります。道徳が道徳的だから良い、という考え方は根本的に間違っているのではないだろうか。先ほどの例で言えば、本当の答えは「重罰になる可能性を考慮して、どうしても人を殺したければ、やむを得ない」ではないだろうか。また、「社会にとって役に立つことは、善でも何でもないが、僕は社会が大事だと思うので社会に役に立つことは良いと思っている」と答えることしかできないのではないか。そして子供たちに教えるべきことは「人を殺してはならない」という「道徳」ではなく、もしもどうしても人を殺したくなってしまった場合、その意思を社会と共存させる能力(あまりよくない例ですが、死刑執行人になるなど)であるべきではないか。これこそが本当の真理ではないか、と僕は思うのです。

 

いや、しかしこれは「真理が善である」という立場から話をしているに過ぎません。これ自体もエゴイズムであり、真理が良いことであるなんて何の根拠もないではないか!これはごもっともです。冒頭で言った通り、絶対的な真理が存在しないとするならば、真理はエゴイズムになってしまします。いや、真理はエゴイズムなのです。だから、実は僕の立場から見た従来の「道徳」に対する批判は、自分の首をも絞めることになってしまいます。

 

このような問題を解決する一つのアイデアが、「力への意志説」または「愛の理論」です。これはあらゆる道徳がエゴイズムであることを認めることから出発します。あらゆる道徳はエゴイズムである。でもそれでもいいじゃないか。だったらまず、そのエゴイズムがともかく存在するという点に着目しよう。その起源は一体何なのだろうか?そのエゴイズムははたして良いエゴイズムなのだろうか?そのエゴイズムを肯定することはできるのだろうか?

別の言い方をしてみます。エゴイズムは存在する。その起源とは、社会経験とか、生まれつきの性質とか、系譜学的な考察とか、いろんな考察ができる。それらによって、そのエゴイズムが良いものか悪いものかを判断しよう(これもひとつのエゴイズムですが)。そして最終的には、肯定すべきエゴイズムを肯定しよう。これこそが僕やニーチェの出した、「道徳的であること」への解答なのです。

このように考えると、「どうして人を殺してはいけないのか」という問いに対する本当の答えは、「重罰を受ける可能性を考慮して、どうしても人を殺したければ、やむを得ない」ではなく、「重罰を受ける可能性を考慮して、どうしても人を殺したければ、そうするべきだ」という、恐ろしい結論に達することになります。それこそが自分の生を肯定する唯一の方法であるのなら、そうすることが道徳的なのではないでしょうか?

この結論をどのように受け止めればいいのでしょうか?おそらくそれは僕たちが各々、考えなければいけない難しい問題なのだと思います。僕はまだ答えを持ちませんし、誰も答えを持っていないのだと思います。しかし、近い将来、このように道徳が根本的に見直されなければならない時代が来るのではないかと思います。クローン技術しかり、人工知能しかり、僕たちの一般常識では太刀打ちできないくらいの道徳的な難問がのしかかろうとしています。そのために、道徳についてしっかり考えるということは重要になるのではないか、と僕は密やかに思っている次第です。

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