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価値について

哲学

例えば2種類の猫AとBが存在して、Aは世の中に腐るほど生息していて、もう一方のBは世界に数匹しかいないとなると、後者のBの猫には「希少価値」がつきます。これは考えてみると面白い話です。つまりその猫の性質、例えば美しいとか実用的とか、そういった本質的な価値とは全く関係なしに、ただ世の中にどれだけ存在しているか(N(A)とN(B))、その数値によってのみある種の価値が決まるのです。さらに厳密に言えば、ある人がAよりBに価値があると感じるのは、その人がN(A)>N(B)であると「認識」することだと言えます(つまり実際にはN(A)<N(B)であったとしても、その人がN(A)>N(B)だと間違えて認識したら、その人にとってはAよりBの方が価値がある、ということです)。

これは「希少価値」という、価値のほんの一部に関する議論に過ぎないように思えます。しかし、実はそうでもなくて、希少価値によってあらゆる種類の価値の説明ができるような気がするのです。つまりあらゆる価値=希少価値である、ということです。今回はそれをできるだけ分かりやすく説明したいと思います。

まず、ある人がどのように価値(=希少価値)を感じるか、そのメカニズムを説明します。ある人がそもそもAを希少であると感じるということは、その人にとってAが不足しているということです。Aが欠乏する→Aの欠乏を認識する→Aに価値を感じる、ということです。これは欲望ととても似ています(実際に、価値を感じることと欲望を感じることはとても深い相関関係があります)。ただ違うのは、Aの欠乏によって必ずしもAへの欲望は生まれないが、Aに対する価値は必ず生まれるということです。例外なく、希少なものには価値が生まれるのです。

ここでこんなことを言う人がいるでしょう。「私にとって猫AとBがいたら、たとえBがとても希少だったとしても、Aの猫の方が可愛かったらAの方が価値があります。」しかし、これも実は希少価値で説明できちゃいます。つまり、この人にとっては(とても漠然とした表現ですが)「可愛いもの」が欠乏しているということです。つまりこの人にとってN(可愛いもの)<N(可愛くないもの)であるからこそ、N(A=可愛いもの)<N(B=可愛くないもの)であり、Aに希少価値を認めることになるのです。

この価値=希少価値を仮定すると、もっと面白い考察が色々と出てきます。第一に、価値は流動的であるということが説明できます。ある時代ではみんながAの欠乏を認識したとします。そうするとAに価値を感じ、場合によってはそれはAへの欲望になります。そうするとしばらくの間みんながAを追求するので、もしもその結果Aが増えたとしたら、Aの価値は皮肉なことに転落してしまい、今度はAでないものが不足します。こうしてまたAでないものが増え、やがてAの希少価値が再び現れます。このように価値が振動することは、決して珍しいことではないでしょう。

次に、「永遠に価値があるもの」について説明します。Aに永遠の価値があるとは、

①Aが常に欠乏しており、その欠乏が認識できる

②Aの欠乏が絶対に満たされない、つまりN(A)を増やすことが不可能である

という2つの条件によって規定される事態に過ぎません。例えばある男の人が、自分はやがて死ぬということを強く認識したとします。「自分の生」の欠乏を認識する、あるいは錯覚すると言った方が正しいかもしれません。しかし、これを絶対的に満たすと言うことは、不老不死を実現するということであり、これは不可能です。むしろこれが不可能だからこそ、「自分の生」には価値があり続けるのです。もしも不老不死が実現できたとすれば、逆に「自分の死」に価値が生じるようになるでしょう。Aに永遠の価値があるというのはAに本質的な、普遍な価値があるということではなくて、Aが人間に常に欠乏しており、その欠乏を認識できて、その欠乏を満たすことができない、という構造的なもの、言ってしまえば錯覚にすぎないのです。

最後に、芸術の価値について、希少価値という視点から説明してみます。と言っても芸術が複製されると価値が減る、という話ではありません。むしろ芸術は人間が構造的に必ず抱えている欠乏を認識させ、それを満たすことによって永遠に近い価値を持つことができます。希少価値の話において注意しなくてはいけないのは、例えば僕に何かが欠乏していたとしても、それを「認識」しない限りは、価値は生じないということです。ある人が「芸術がわからない」と言う時は、その人がただ欠乏を感じていない、ちょっと鈍感である、というだけのことです。欠乏自体は必ず存在しているはずなので、ちょっと勉強すれば芸術は誰でも理解し得るものだと思います。かなり努力して感性を鋭くすれば、芸術を生み出すことだってできるでしょう。

前回の最後に、心に突き刺さるような写真に価値があるという話をしました。この心に突き刺さるという表現は、バルトの言葉を使えば「プンクトゥム」と呼ばれる効果です。これはつまり、針の穴のように人の心にすっぽりと空いた欠乏を認識させることによって、鋭い価値を生み出すことができる、という話です。このあたりの話は気が向いたらちゃんと書きます。

価値=希少価値という仮定は必ずしも正しいとは限りません。しかし、意外と多くのことを説明できてしまうので、あながち間違ってもいないように思われます。もうすこし深く考えたら、また違った見方ができるようにもなるかもしれません。そしたらまた記事にしてみます。

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