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明るい部屋

書評

誰でも現代人なら写真を撮ったことも、撮られたこともあるはずです。また、他の人が撮った写真を見たこともあるはずです。このように、僕たちはかなり身近に、バルトの言葉を使えば「撮影者」、「幻像」(簡単に言えば被写体)、または「観客」として写真と関わっています。それぞれが奥深い話になりそうですが、今回は「幻像」に限って話そうと思います。

ここで幻像なんてけったいな言葉を使っているのは、写真が「死者の再来」のメタファーになっているからです。写真とは「かつて、そこにあったもの」を指します。かつてそこにあった(そして今は無い)という意味で被写体は全て死者であり、それを写真として今再び眺めることが、再来ということです。このメタファーを重視すると、話が過度にシリアスになってしまうのですが、そこはご了承ください。(でも写真とはそういうものなのです。どんなに楽しく映っている写真も、多分何十年後見れば物悲しさがつきまといます。)

さて、僕たちは幻像として写真に撮ってもらう時、何を考えるでしょうか?可愛く撮ってもらいたいとか、カッコよく撮ってもらいたい、というのが多そうです。あるいはユーモラスとか、挑戦的とか、まぁ何でも良いです。一般的に言えば、自分が見られたいように撮ってもらいたい、というのが多いでしょう。でも個人的には、どう見られたいかとかっていうのはあんまり面白くありません。それならphotoshopを使って好きなようにいじっちゃえばいいじゃん、というつまらない結論に至ってしまうからです。

どう見られたいかではなくて、どう見ることができるか、というのが写真の面白さにつながる視点かと思います。どう見ることができるか、というのは①撮影者の愛と技術と②被写体の幻影としてのポテンシャルの2つによります。例えば免許証の写真はだいたい犯罪者っぽい顔になってしまいますよね。そういうのは①の撮影者の愛が足りないからです。

死者のメタファーで言えば、写真家はよく人物を「生き生きしているように」撮ろうとします。これは写真が死者の再来であるがゆえに、あるいは写真がそのままでは犯罪者みたいになってしまうがゆえに、その反動として写真を生き生きとしてみせようとしている、とバルトは言っています。これが正しいかどうかは別として、バルトはこれは写真本来の「死者の再来」に対する態度としてはよろしくないんじゃないかと考えていて、僕もそこには同意します。お葬式で派手な言動は慎むべきだとされていますよね。このメタファーで写真を捉えるならば、人を「生き生きとして撮る」よりも、むしろその被写体に対する敬意を持って接するべきだと思うのです。

こういう意味で、白黒の写真をバルトは好みます。色なんていうのは死者に化粧をするようなものだと、彼は考えているようです。でも僕も白黒の写真が好きです。写真家も白黒が好きな人は多そうです。

さて、どう見ることができるかについて、という話をしていました。でももうしばらく話題を逸れます。写真と絵画の違いについて触れた最後に、この話にケリをつけましょう。

まず、形式的な意味で、絵画ほど写真と似通っているものはないでしょう。どちらも二次元で、平面的です。ではどう違うのか?

絵画とは違って、写真は「現実に、かつて、そこにあったもの」です。どんなに写実的に描かれた肖像画よりも、全く実物に似ていないスピード写真の方が、その人物が存在したということに関して直接的な証明になります。例えばウィリアム・キャスビーという人物の写真があります。彼は「最後の黒人奴隷」だとされています。この写真はとても直接的に視る者の心を打ちます。

 

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しかし、面白いのはロダンの言葉です。「正直なのは芸術家で、写真が嘘つきなのだ。現実において時間は立ち止まらないのだから。」要するに、写真は現実における一瞬を捉えるが、瞬間的にしか現実を捉えることができないのです。例えば疾走する馬を表現するのに、写真ではその場で馬がジャンプしているような映像しか捉えることができません。しかし、ジェリコーは現実ではありえないようなポーズの馬を描くことによって、馬の疾走感をより「現実的」に捉えている、と考えることもできます。

 

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まぁどちらが現実に近いかというのは不毛な議論でしょう。それは見方によって変わりますし、写真や絵画の価値の尺度は別に現実に近いかどうかではないからです。

重要なのは、とにかく写真というのが「かつてそこにあったもの」であるということであり、絵画とは違って現実と直接の接点を持つということです。どんな写真だって、それは「かつてそこにあったもの」なのです!それだったら、できるだけ良いカメラマンに、色んな写真を撮ってもらえたら、めちゃくちゃ幸福じゃないですか?多分僕たちは誰だって、それぞれ良いところがあります。その良さっていうのは、かっこよさとか可愛さみたいに単純じゃなくて、もっと抉りださないと見えてこないかもしれません。でも、その良いところをグッと引き立てることができるカメラマンに写真を撮ってもらえたら、多分誰だって生きててよかったと思えるような気がします。大げさじゃなくて、そのくらい写真というのは力のあるものだと思う、ということです。

良いカメラマンというのはカッコよく撮るとか可愛く撮るとかじゃなくて、心に突き刺さるような写真を撮れる人のことです。心に突き刺さる写真というのは、「幻像」としてではなく、「観客」の視点からの話になります。これは(おそらく)次回以降に書こうと思います。

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