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脱構築

哲学

脱構築とは「2項対立崩し」のことです。ここで言う2項対立とは、特に言語において、2つの対立する言葉で表されるもののことで、例えば「自然」と「人工」、「本質」と「表層」、「自由」と「制約」などのことです。今回はいくつか具体例を挙げながら簡単に説明します。

まず「自然」と「人工」について。僕たちは言葉によって差異を表しているという話は以前しましたが、この差異というのは実はとてもあやふやな概念です。自然と人工はよく使われる2項対立ですが、これらの対立というのも曖昧です。たとえば「人間は自然に還るべきだ」と主張する人がいたら、ちょっと困ってしまいます。なぜなら「自然に還る」ためには現代では人工的に自然を保持しなくてはならず、むしろ人工的な社会に生きる方が「自然」です。このような矛盾がなぜ起きてしまうのかを説明するのが脱構築のひとつの仕事です。

この矛盾とは、対立する2項に分けたはずの概念が、お互いの意味に侵入してくることによって生まれます。たとえば「自然」とは、「人工的なものを取り除いた」という意味で使われますが、この時点で「自然」の定義に「人工」という言葉の意味が入ってきてしまっています。このように意味が侵入してくるというのが面白いところです。たとえば人間が生まれてくる以前は、地球は純粋に「自然」であったと言えるでしょう。しかし、人間が生まれた以降、「自然」の中に「人工」が侵入してきます。現代ではもはや2つの区別がうまくつかなくなっています。なぜならお互いの意味にお互いが侵入してしまったからです。だからこそ、「自然に還る」と言った時の自然には人工が含まれ、また人工には自然が含まれてしまうので、自然の意味があやふやになってしまったのでした。

このように2項対立は意味の侵入によって2項対立じゃなくなってくる、というのが脱構築の基本的な考えです。これは「本質」と「表層」でも似たような話ができます(本質とは表層的なものを取り除いたという意味だからです)。「自由」と「制約」でもおそらく同じ話ができるでしょう。

もう1つだけ面白い例を挙げておきます。「芸術」の意味というのも、同様に「芸術でないもの」からの意味の侵入によって絶えず変化しています。芸術の歴史を紐解けばそのような例をいくつでも挙げることができますが、おそらく一番大きな「意味の侵入」はマルセルデュシャンの「泉」という作品によって行われました。デュシャンの作品は、既製品の便器にサインをしただけのものです。これがなぜ芸術として認められるかという話は、また別の機会に書こうと思います。ただ、芸術とは「なぜ美しいものだけが芸術なんだ?醜い絵だって芸術だ」とか「なぜうまい絵だけが芸術なんだ?下手な絵だって芸術だ」といったように「かつては芸術ではなかったもの」によって絶えず意味が侵入されてしまう、というのが今回の論点でした。

おしまい。

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