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論理的思考と創造的思考

哲学

 人間の思考がはっきり2種類に分類できるという話ではありませんが、だいたい論理的思考創造的思考の2種類の考え方が人間にはできるのではないかという話です。論理的思考は特に数学などにおいて重要で、創造的思考は小説や詩を作る際に重要です。しかし、ふつうは両方の思考力どちらも必要です。数学においても創造的思考は必要ですし、詩作においてもある程度の論理的思考は必要です。

まず、論理的思考とは何かというと、ある命題Aが正しいかどうかを判断するために、以下のようなロジックツリーを構成することによって、Aの真偽を分析することです。

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このようなロジックツリーを作ることによって、「命題Aが真である」という問題を、「命題BとCが真である」かつ「命題BとCが真であるならば、命題Aが真である」というような2種類の別の問題に帰着させることができます。前者を「仮説」、後者を「推論」と呼びます。また、このようにロジックツリーを構成して命題Aの真偽を判断することを「分析」と呼びましょう。つまり分析とは、ある命題をその仮説の真偽と推論の真偽によって判定しようという試みのことです。

それぞれの仮説BとCの真偽は、それ自体をさらに分析することができます。これをどんどん続けていった時、数学の場合はそれ以上分析する必要がない公理にたどり着きます。逆に言えば、数学はこれらの公理をもとに、論理的な推論によって真になる命題を探すことだとも言えます。

しかし、数学以外の場合、とくに僕たちが普段直面する問題は、このような分析をいくら行っても公理にたどり着くのは難しかったりします。たとえば「幸福であることは良いことである」という命題ですら、確実に真であるとは言えません。それは個人の価値観であったり、時代や場面によって真偽が変わります。このように、ある命題の真偽は、その背景にある「解釈」によって定まります。つまり現実の問題は、数学とは違って、いくら分析を行っても絶対的な公理にはたどりつけず、人それぞれの解釈によって真偽が異なる仮説にしかたどりつけないのです。

命題や仮説の真偽を決めるのは、結局は解釈です。(細かい話はしませんが、これは数学においても同様です。)なので、別の人が別の解釈で分析を行えば、おそらく別々の仮説にたどり着くでしょう。このような意味で、一般的には、絶対に正しい命題というのは存在しません。なぜなら解釈によって仮説が異なり、仮説が異なれば命題の真偽は異なるからです。

 

余談:もう少し厳密な話が知りたい方に。

① 絶対に正しい命題があるとしたら、それはいわゆるトートロジーです。トートロジーとは、あらゆる解釈において真である命題です。一般的な命題はトートロジーではないので、その真偽は解釈による、という意味で真実は絶対的ではなく相対的になります。

② 公理というのも、実は絶対的に真であるというものではありません。公理まで疑ってしまうと、何も論理的に推論できなくなってしまうので、そういうものをとりあえずみんな真であるとしましょう、というだけです。別の言い方をすると、ある公理を満たすような解釈だけを考えましょう、ということです。

③ 推論というのも数学であればその真偽は明らかですが、一般的には正しい推論規則を明文化することは難しいようです。数学のように推論規則をうまく明文化できた場合、「命題BとCからAが推論できる」とは、「あらゆる解釈において、命題BとCが真であるならば、命題Aが真である」と同値になります。

④実は、推論規則が正しく明文化できない以上、数学における論理と一般的な言葉における論理はまったくの別物です。なので一般論についてはあまり厳密ではありませんが、数学における論理からのアナロジーを使って一般論について推測してみた、という話です。

 

しかし、絶対的に真である仮説がないからと言って、このような分析に意味がないと言っている訳ではもちろんありません。理由はいくつかあります。たとえば、仮説でもほとんど間違いなく真である場合もあるし、間違っていたとしても有意義な仮説も存在します。さらに分析を行うことによって思考がとてもクリアになります。とにかく完璧ではありませんが、論理的思考はものすごく重要です。

 

一方で、そもそもある命題Aの真偽を考えてみよう、という思いに至るのは論理的思考ではなく、むしろ「発想」によるものです。より一般的に、命題を分析するのではなく、分析する命題を作り出す(あるいは発見する)ような思考を創造的思考と呼んでおきます。これはたとえば分析に値しそうな命題を、無数の命題の中から見つけ出す能力などです。

創造的思考の源泉は、(仮説とかロジックツリーをほとんど意識せずに)(ある解釈によっては)ある命題が真あるいは偽なのではないか、と直感する能力です。さらに言えば、その直感は色々な解釈を想像することから生まれます。

命題自体はコンピューターだって言葉を組み合わせることでいくらでも作り出せる訳ですが、色々な解釈を想像して、ある命題が真ではないだろうか、あるいは偽ではないだろうか、と直感する能力は今のところ人間にしかありません。この思考はクリエイティブなので、創造的思考と呼びました。

たとえば詩や小説を作る能力は、この創造的思考を応用している場合が多く見られます。具体例で話すと、森鴎外の「高瀬舟」という作品が有名ですが、これは「殺人は悪いことである」という命題に対して、これはある場合には(つまりある解釈においては)偽ではないだろうか、という発想から生まれています。そして、そのある場合というのを具体的に描いてみたのがこの作品です。つまりこの小説はある興味深い命題と、興味深い解釈を同時に与えている、と考えられます。

小説や詩などは、興味深い命題だけを提示したり、興味深い解釈だけを提示したり、あるいはそれをほのめかしたりすることができる、と僕は思います。興味深い、というのがひとつのキーワードです。興味深いとは何なのか、僕もはっきり言ってよくわかりません。なぜ興味深いと感じるのかは、これは論理的に考えてみるべき問題であり、これから考えていきたい1つのテーマです(いわゆる芸術論に行きつくかもしれません)。

また、この「創造的思考」に関する僕の説明というのも、創造的思考によるものだと付け加えておきます。論理的に確かな根拠がある、というより、「詩作は創造的思考によるものである」という正直本当なのかよくわからない、でもちょっと興味深い命題を提示しようとしました。

最近はこの創造的思考に興味があるので、僕の考えはあまりロジカルでない、と感じるかもしれません。それは僕が真でありそうな命題を論証したいのではなくて、興味深い命題とか解釈を提示したいだけだからかもしれません。なので、そのような記事に関して言えば、僕の創造的思考について色々な解釈を試したり、論理的に分析してみて、「ちょっと興味深いかも」と思っていただけたら嬉しいです。