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論理と詩

哲学 文学

まず、アプリオリについておさらいします。アプリオリというのは、先天的であるという意味です。経験によって身につけるものが後天的だとすれば、経験する以前、そもそも経験自体を可能にするものが先天的でアプリオリなものです。例えば、僕たちは空間と時間をアプリオリに認識しているとされています。あらゆる経験は空間と時間という形式に沿っている、ということです。

でも、これらのアプリオリな認識は正しいのでしょうか?たとえば「時間のない世界」と言った時、僕たちは漠然とですが時間のない世界をイメージできます(全てが完全に静止している世界など)。同様に、空間のない世界というのも、なんとなくはイメージできます(死後の世界とか?)。アプリオリというのはいわゆる現実界を人間が自然に認識するためのツールでもあって、それが絶対的に正しいという訳ではなさそうです。

 

さて、今回は論理がアプリオリな認識であることを示してみたいと思います。

まず、A=「ソクラテスは人間である」と、B=「人間は必ず死ぬ」という命題が真であったとします。この場合、C=「ソクラテスは必ず死ぬ」という命題は必ず真になるはずです。なぜならこれは論理的に正しいからです。では仮に、AとBは正しいが、Cは間違っていたと仮定してみましょう。つまり、ソクラテスは人間であり、人間は必ず死ぬが、ソクラテスは死なない、と考えてみます。このような考えが成り立つような世界に至っては、人間は想像することすらできません。なぜなら、ソクラテスが死なないのであれば、ソクラテスは人間ではないか、あるいは人間は死なない場合があるからです。つまり、Cが間違っているということはAまたはBが間違っている、としか僕たちは考えることができないのです。この意味で論理は経験を超越しているので、論理はアプリオリである、と言うことができそうです。

 

しかし、「ソクラテスは人間であり、人間は必ず死ぬが、ソクラテスは死なない」という矛盾した命題を、僕たちが言葉によって表現できるというのは注目すべき事実でしょう。言葉とはシニフィアンであり、僕たちはこのシニフィアンを論理に反する仕方で並べることも可能な訳です。この事実もある意味では、論理というのが人間のアプリオリな認識でありながら、それが成立することは必然ではない、という可能性を示唆するのかもしれません。

 

この論理に反する表現は、明確な意味を持たずとも、ある種の詩的な効果を生み出します。たとえば、「僕は今ここにいて、同時にここにいない」という文章は論理的に見ればナンセンスですが、僕たちはなんとなくこの文章に共感することができます。「それはある意味で僕はここにいるが、別の意味ではここにいないという意味であって、論理的に矛盾しているわけではない」という反論が聞こえてきそうであり、それは一理ありますが、別の意味であるという保証はなくて、この命題が完全に矛盾しながらある効果を生み出していると考えることだってできます。どちらが正しいとは言いませんが、僕の言いたいことは論理に反する表現をすることが可能であり、それがシニフィアンの結合である以上何かしらの意味、あるいは効果を生み出していると考えることができる、ということです。

「僕は今ここにいて、同時にここにいない」という世界をうまくイメージすることはできません。しかし、この文章はひとつの詩的な効果を生み出すことができると僕は考えます。言葉というのは思っている以上に深いです。そして論理を超越したところに詩の世界はあるのではないか、と思わなくもないです。

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