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愛と実践

哲学

今回の記事の目的は、愛の理論について、「自己目的性」、「他者の目を脱する」、「愛と実践」という3つの側面から分析してみることです。できれば下の記事を読んでおいていただけると理解しやすいと思います。

 

futsaludy.hatenablog.com

まず、自己目的性について。

ここにフィツジェラルドが愛娘にあてて書いた手紙があります。

http://www.lettersofnote.com/2012/03/things-to-worry-about.html

僕はこのThings to think about: What am I really aiming at? という文章を高校生の時に読んで、衝撃を受けたのを覚えています。自分の目的は一体何なのだろうか?受験勉強は大学に入るための手段、大学に入るのは良い会社に就職するための手段、良い会社に就職するのは…?このような目的は連鎖し、本当の目的は見当たりません。これは目的が自己目的ではないことが原因です。

自己目的でない目的が悪いという訳ではありません。ただし、自己目的でない目的は、結局何が目的なのか、これはフィツジェラルドが言うようにちゃんと考えるべき重要なことです。それでは、自己目的でない目的の、究極的な目的とは一体何なのでしょうか?

AはBのため、BはCとDのため、Cは…この連鎖を続けていくと、最終的にはそれ自体が目的である自己目的に到達するでしょう。自己目的なものの例としては、愛、幸福、真実、自由、芸術、平和、生、破壊、死などがあります。これらは互いに独立ではありませんが、それ自体を求めることに意味がある、という意味で自己目的です。

一方で自己目的でない目的の例は、便利、お金、技術、力などがあるでしょう。これらは最終的に、何かしらの形で必ず自己目的なものに到達しますが、それ自体は真の目的ではありません。しかし、一般的にはこれらを自己目的のように考えてしまい、真の目的は意識しないことが多いのではないでしょうか?

これは大きな問題をもたらします。これらの自己目的でない目的も、巡り巡って真の自己目的に到達します。それは意識されていないため、正しい自己目的に到達するとは限りません。例えば、自己満足というのもひとつの自己目的ですが、これに到達するような目的にそこまで価値があるとは言えないでしょう。

あらゆる目的は(一般には複数の)自己目的につながります。それでは、そもそもどうして自己目的を求めるのでしょうか?その答えはひとつしか考えられません。それは、意識的にせよ無意識的にせよ、その自己目的に対する愛があるからです。愛とは自己目的に対して近づこうとする引力のことです。人間には意識的にせよ無意識的にせよ、その目的に対して近づこう、近づきたいという力が働きます。これを愛と呼んでいる訳です。

僕の考えでは、愛はとても広い意味で使われています。それによって一般性のある理論展開ができています。例えば憎しみとは愛そのものです。可愛さ余って憎さ百倍とは、憎しみが愛から生まれていることを示しています。愛の反対は憎しみではなく、無関心です。

また、前の記事でも書いたように、愛は正しくなくてはいけません。だからこそ、無意識的な愛をちゃんと意識し、理性によってそれを正当化することが必要なのです。そのために目的は自己目的に帰結させなくてはなりません。

まとめると、自己目的を追求することはすなわち愛を追求することであり、この意味で愛は究極の目的だという理論が成立するということです。

 

次に、他者の目を脱するという話をします。人間はたとえば他の人間など、他者に見られることによって自我を確立します。ラカンの言葉を使って言えば、絶対的他者による承認です。これは人間がちゃんとした自我を作り上げ、社会的な人間になるために必要不可欠な要素です。しかし、これは一方で根本的な問題を引き起こします。たとえば、承認欲求です。これもひとつの自己目的ですが、承認欲求の正しさについては議論が必要になります。もちろんそれは間違ったことではなく、自然であり、むしろ社会に役立つ可能性もあります。しかし、本来の自分というものを見失ってしまうという意味で自分は疑問を抱いています。そもそも、承認欲求が満たされるだけで本当に人は幸せになるのでしょうか?社会は個人が各々承認欲求を目的とした場合、本当に良くなるのでしょうか?

このような視点から、他者の目を脱するという選択肢が生まれてきます。他者の目を脱するとは、他者の目ではなく自分の目で世界を見るということです。あなたの人格も性格も愛も、所詮はあなたが作り上げたものではなく他者が作ったものです。しかし、大人になるということは他者の作り上げたものを自分のものにするということです。承認欲求のように他者の目を通した愛ではなく、自分自身が本当に愛することを追求するべきではないでしょうか?

他者の目を脱するとは、非常に難しいことです。また、これには自分を深く見つめるだけではなく、愛を実践することが必要です。これは最後のテーマにつながります。

 

以前の記事で、僕は愛がスタートであり、かつゴールであると言いました。しかし、ゴールであるというのはちゃんとした説明が必要な気がします。

まず、愛というのは感情ですが、愛するというのは行為です。この感情と行為は不可分であり、感情から行為が生まれ、行為から感情が生まれます。

行為から感情が生まれるというのは、たとえば恋愛感情の無い男女二人が、1日を一緒に過ごしただけでお互いを好きになるような現象です。ここでは1日を二人きりで過ごすという恋人的な行為によって、逆に愛という感情が生まれています。

このようにして、感情と行為の双方によって、愛を構築していくことがゴールではないかと思います。これはつまり、愛を実践していくということです。

恋愛の例を挙げましたが、これは恋愛に限った話では全くないので注意してください。たとえば平和を愛する人がいたとします。その人は世界の平和のために何かしらの行動をしていくでしょう。その行動によって、彼は同時に自分の愛の確証を抱くことができ、愛はさらに深まります。そしてそれはまた活動につながる…という好循環が生まれるのではないかというお話です。

 

以上の3つの視点から、僕が愛だの何だの言うのは、完全に主観的な考えからではないことが分かっていただけるではないでしょうか?確かに理想論的ではありますが、とても意義のある視点だと思います。お読みいただきありがとうございました。

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