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隠喩について

哲学

 今回は隠喩について説明する。隠喩とは、「元始、女性は太陽であった」という平塚らいてうの発言に見てとれる。この文章を超ナイーブに読んでみると、「いや、どう見ても女性は太陽じゃないでしょう。もし太陽であるならば夫はとうに燃え尽きているはずだ」と言いたくなる。もちろん、隠喩とは女性=太陽であることを言いたい訳ではないのである。前回までに、僕たちは言葉のシニフィアンという概念を勉強した。これを使って説明すれば、隠喩とはひとつのシニフィアンを全く別のシニフィアンで置き換えることである、と結論できる。この例の場合、女性というシニフィアンを太陽という別のシニフィアンに置き換えているのである。

 これは端的に言ってものすごいことである。僕たちは言葉を組み合わせることによって現実を超えた意味をいくらでも生み出すことができるのだ。この隠喩によって擬人化もできるし、美しい詩を作ることもできるし、精神分析を行うこともできる。人間のあらゆる想像、思考、ユーモアなどはシニフィアンを自由に組み合わせることによって可能なのである。

 ここで少し僕流の補足をしておこう。隠喩に限らず、シニフィアンが結合するだけでは意味はひとつには定まらない。たとえば「月が綺麗ですね」というのはお月見の場で言えばなんでもない感想であるが、好きな人の前で言えば「あなたを愛しています」の隠喩にもなり得る。つまり、シニフィアンの意味を確定させるためには文脈という概念が必要なように思える。この文脈は一般的には個人的なものであるから、同じ文章を読んでも感じ方は千差万別であったりする。

 さて、以上のことを踏まえて、ゲーテの「世界の万物はメタファー(隠喩)である」という命題について吟味したい。これはつまり、世界の万物はシニフィアンとして機能するということである。あなたの部屋のベッドもクローゼットも、あなたの手も足も意識も、ひとつのシニフィアンなのである。それぞれが正しいシニフィアンと結合した時、そこにはとても興味深い意味が生じる。あなたの退屈なベッドも、安楽のメタファーかもしれない。あるいは情熱のメタファーかもしれない。あるいは死のメタファーかもしれない。

 あなたはそんなこと意識していないかもしれないが、あなたの代わりに無意識は隠喩を捉えている。面白いことに、僕たちの無意識が感じる隠喩にはある程度の共通なパターンが存在する。その理由は人間の経験はどれも似通っているということと、そもそも生まれる前から遺伝子レベルで似通っているから、などと考えられる。これはたとえばユング心理学で言う元型である。

 しかし、もっと面白いことに僕たちはひとりひとりオリジナルな文脈を持ち、オリジナルなメタファーの意味を見出すことができる。梶井基次郎の檸檬は、はたから見ればただの酸っぱい果実である。しかし、それをある文脈で見ると何か神秘的な意味すらを持ち始める。小説とはひとつの文脈の提案であり、それによって読者がある程度共通のメタファーの認識をすることができる。ジョーオーウェルの1984はまさにその極例であろう。ここではビッグブラザー共産主義の集権的な存在のメタファーであることは明らかであり、それを通じて共産主義への批判を投げかけているのである。一方で、また面白い小説は文脈をあなたに考えさせ、ただ興味深いシニフィアンの結合だけを提示する場合もある。その場合、解釈はひとつには限られない。身近な例で言えば村上春樹はそのタイプのように思う。

 隠喩の面白さについては自分だけでは語りきれない。もしも少しでも面白いと感じていただけたなら、この記事で満足することなく自ら進んで考察を深めていっていただきたい。

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