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ラカン入門 その2

哲学

今回は言語構造の話である。先に前々回の記事を参照しておくことをおすすめする。

 

futsaludy.hatenablog.com

まず、ラカンによると「シニフィアンシニフィエとは独立して存在する」ものである。これは(厳密ではないが)シニフィアンを0と1だけを使って表したと考えると分かるのではないだろうか。シニフィアンは0と1の羅列であり、全く意味がなく、シニフィエは独立に存在する(ゆえにコンピューターには人間の言語を理解できない、という視点にもつながる)。

また、シニフィアンは他のシニフィアンとの結合によってのみ意味を成立させる。例えば「はし」というのは橋なのか箸なのか端なのか分からないが、「はしを渡る」のように他のシニフィアンと結合することによって意味が分かる。

この独立性の概念と、シニフィアンの結合性の概念によってようやく、「無意識は言語のように構造化されている」という前回触れた重要な命題の真意が分かる。まず、無意識とはシニフィアンの集合体である。ここでいうシニフィアンとはとてつもなく広い意味で使っている。言語はもちろんシニフィアンであるが、例えばイメージなどもシニフィアンである。無意識に存在するあらゆるものを、とりあえずシニフィアンとみなすのである。そうすると、シニフィアンが結合することによって意味が生じてくる。

この考えは例えば夢の解析に用いられる。夢のひとつのイメージを他のイメージと結びつけることによって、意味が生じる。おおざっぱだが、夢の解読はこの原理を使って行われるのである。

 

それではどのようにシニフィアンの結合は意味(シニフィエ)を生み出すのだろうか?それには次の図を見ていただきたい。

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まず、平な曲線はシニフィアンの流れを(左から右で)示しており、逆さまのU字はΔから始まって、シニフィエを生み出すために必要な線である。イメージとしては、逆さまU字によって、シニフィアンの流れを固定するのである。

まずはじめに、二つの線は右の交点で一度交わる。それまでの間にシニフィアンの選別が行われる。それから逆さまU字の流れに沿って進むと、もう一度左の交点でシニフィアンと交わる。これは文章の終わりを意味し、これによってようやく文章の意味が生じる。

 

例えば機知に富んだ造語というのはこの図で説明できる。Famillionaireという造語を考えてみよう。これはfamiliarとmillionaireが混じったものである。まず、右下のΔの時点で、僕たちは何かしらの意図を持っている。それが右の交点でシニフィアンと出会った時、familiarという単語が出てくる。しかし、その後左の交点で別のシニフィアンmillionaireと出会い、famillionaireという造語が完成する。ざっくり言うとこんな感じである。

ここでパロールについても説明しよう。パロールとは、話される言葉という意味である。例えば日本語を使ったパロールなどが考えられる。

パロールに関しては、二つの様式がある。一つは想像的関係の間で交わされるパロールである。簡単に言ってしまうと、これは本質的でないおしゃべりのことである。想像界が闘争的なイメージの集合体であり、絶対的な法がないことから、そこで自らの存在を決定することはできない。本質的でないとは、このように自らの存在を決定しない、という意味であることに注意されたい。とにかく、これを空のパロールと呼ぶ。

一方で、象徴的な(絶対的な)他者との間で交わされるパロールを充溢したパロールと呼ぶ。ここでは絶対的他者が主体の決定をするようなメッセージを送る。例えば「汝はわが妻なり」と誓う時、この発言は自らを夫として決定する。

ここでfamillionaireという造語を使わずに、同じ意味の文章を作ったとしよう。これは実は空のパロールとなる。その理屈はこうである。これを文章として表した時、貧乏人の妬み、羨望といった想像的な他者aとの競合関係があり、L図で言えばaとa’上に想像的関係が存在している。すなわち、これは私と他者aとの間の空のパロールである、と考えることができる。

これがfamillionaireと違うのは、この造語は私によって作られたのではないということと、聞き手がその可笑しみを理解することで絶対的他者として承認を与えるということである。すなわち、これは充溢したパロールとなることである。この場合パロールは私を通らない。これは創造の神秘と考えることができるが、要するにこの造語というクリエイティビティをもたらした主体は私ではないということである。これはひとつの芸術観を与える。芸術は私を通してできるのではなく、意味しようとする意図があり、そこから先は絶対的他者(言語など)がそれを生み出すのである。

このようなパロールの違いは、精神分析的な視点で物事を考えているから生じるものである。正直自分もそれをまだ完全には飲み込めていないが、なんとなく言いたいことはわかる気がする。

 

言語構造の話はもう少し続く。次回はもっと面白い隠喩と換喩の話である。