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蒼白の犯罪者

哲学

ニーチェの思想はとても危ないように思う。まず、有名な「神は死んだ」という言葉について解説します。

キリスト教では、身体は汚いものであり、精神を清めることが重要だと言います。これは現代でも少なからず受け継がれている思想のように思います。しかし、よく考えてみるとこれは根拠がありません。どうして身体は汚いのか?どうして精神が尊いのか?

ニーチェはむしろこの逆を主張します。身体こそが重要であり、精神は身体の一部分である。この視点から立つと、神というのは精神を偏重し、それを清めるために人間が作り出したものに過ぎず、まやかしだということになります。故に、「神は死んだ」のです。

ニーチェの思想を完全に受け入れるべきかどうかはわかりません。しかし、彼の著作「ツァラトゥストラ」には間違いなく鋭い指摘が含まれています。今回は蒼白の犯罪者の話をします。

まず、犯罪者を裁く裁判官。彼はどのように犯罪者を裁くべきだろうか?そもそも彼に犯罪者を裁く権利があるのだろうか?

「裁判官よ、あなたにしても、これまであなたが心の中で行った一切を口に出して大声で言うなら、誰もが叫ぶだろう、「この汚らしい毒虫め!」」

この時点で思うでしょう、思考と行為は別ものなのです。犯罪は主に行為によって裁かれます。では、どうして思考は裁かれないのでしょうか?

今度は犯罪者について見てみましょう。彼は自分の行為の残したイメージにより、自分を犯行の行為者として見つめるでしょう。ニーチェはこれを錯乱と呼びます。犯罪者は、例外を、誤っておのれの本質と考えたのです。

これを行為の後の錯乱と呼びましょう。これに対応するように、行為の前の錯乱もあります。

こうは考えられないでしょうか?まず、犯罪者が病んでいたのは、精神ではなく身体だったのです。彼の身体が病み、苦しんでいる。この時点で、現代で悪とされている悪に襲われる。つまり、自分に苦しみを与えているものによって、他人に苦しみを与えようとする。これが精神に伝わり、犯罪を犯したのである。

この考えが正しければ、次のことが言えます。犯罪者とは身体を病んでいる者である。しかし、ニーチェ曰く誰しもが身体を病んでいます。つまり、誰もが犯罪を犯す可能性がある訳です。

犯罪者になるか否かに関して決定的なのは、この悪に襲われた時、それに打ち勝てるかどうかのように思われるかもしれません。しかし、この「打ち勝つ」というのは精神の話になってしまいます。精神はそもそも身体に従属するのであれば、身体が悪に打ち勝つことができなければ犯罪は起きてしまいます。

さらに言いましょう。これは自明なことですが、現代で悪とされている行為と過去で悪とされている行為は違います。それでは、本当に行為をもとに犯罪者を裁くことができるのでしょうか?

これはあくまで推測ですが、ニーチェはこの議論で犯罪を裁くことは原理的には不可能であると言いたかったように思います。少なくとも社会が存在する上では、犯罪を行為によって取り締まるのは当たり前ですし、思考によって取り締まることができないのも当たり前です。では、もしこの社会の現実的な建設を抜きに、純粋に人間について思考してみたら?ニーチェの言葉にも一理あるはずです。

(注:僕はニーチェの考えをできるだけ忠実に再現したかっただけですが、僕の解釈はかなり入っていると思います。また、これは僕個人の意見ではありません。)

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