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歴史哲学講義 ヘーゲル

哲学 書評

歴史とは一体何でしょうか?

事実そのままが歴史でしょうか、それとも人間がそれをどう捉えるかが歴史でしょうか。

ヘーゲルの提示する考えは哲学的な歴史の見方です。

この見方では最も超越的な概念として、理性というものが存在します。理性が世界を支配し、したがって、世界の歴史も理性的に進行する、という考えです。

ここでは理性は世界の根底にある動力であり、絶対の究極目的です。

自然的宇宙が物理法則によって導かれるのと同様に、歴史も理性によってのみ導かれます。

 

重要なのは、これは抽象論ではなく、現実に見て確認できる事実であるということです(これを確認するには本書を精読しなければいけませんが)。

理性によって手繰り寄せられる歴史とは、精神の発展の過程です。

ここでいう精神の本質とは、自由です(これはいろいろな哲学的思索のもたらす認識であるらしい)。

かっこよく言えば、世界の歴史とは、精神が本来の自己、自由の精神を次第に正確に知っていく過程の叙述である。

 

ここで自由という単語が出てきたので、自由に関する歴史をちょっと見てみます。

まず、人間とはそれ自体が自由である、という考えはキリスト教あたりで始まり、今に至るまで現実に浸透してきています。

古代東洋ではひとりひとりは自由でしたが、人間そのものが自由であることは知りませんでした。

ギリシャ人は特定の人間が自由でしたが、奴隷を含むあらゆる人間が自由であることは知りませんでした。

自由とは、自分自らを目的としてそれを実現するものであり、精神の唯一の目的です。

何かのための自由ではなく、自由のための自由であるということです。

この考えはまさに理念が究極の目的であることに通じている訳です。

 

それでは自由はどのように実現されていくのでしょうか?

世界を見回すと全然そんな感じはしないのは事実。

お金とか欲望がうずまき、世界は自由を目的に動いている感じはしません。

しかし、現代においては、自分の知性、自分なりの確信や判断に基づいて活動の目標を設定することが多いです。

この目標を適切に設定できた時、人間のうちに生まれる動力を情熱と呼びます。

情熱とは、人間の活動力、内的な私的なことに終始するのではなく、公的な行為を目指し実現しようとする活動力のことです。

この活動は根底で理性(あるいは自由意志)と通じており、主観的な意思や関心や活動のように見えるが、究極の理念を意識しているとは限らずとも、彼らは何が時宜にかなっているかを洞察し、それを実行に移すことができます。

こうして偉大な個々人の絶え間ない情熱と努力によって、社会および人間の精神はちょっとずつ自由に向かう、ということです。

 

ヘーゲルは究極の目的は理性であり、例えば個人の幸福などは目的にないと考えているようです。

重要なのは個人が幸福な状態にあるかどうかより、道徳と法にかなった良い目的が確実に実現されているかどうかのほうが重要だということです。 

また、個人が自分ひとりで考えたことが一般的現実にとっての法則になるはずがないじゃないか、とも言っています。

つまり、個人の考える理想には限界があり、色々な人の多様性のある理想の考え方が集積していくことが重要なのです。

個人が考える理想は、究極的には取るに足らないものであるし、実現されなくても当然だし気にしなくて良いのです。

なので、ひとりひとりの意見が大事なわけではなく、色々な意見が混じり合い、淘汰されていけばいいじゃないか、ということなのだと思います。

 

このように言うと個人というのは最高理念を実現するための手段に聞こえる(し実際そうなのです)が、それに過ぎないと言って片付けられないような、永遠にして神々しいものの存在も否定できません。それが道徳心ないし宗教心と呼ばれるものです。(これについては深入りしません)

 

最後に、個人の主観的意思と、究極の目的である理性的意思とを統一するものが国家です。

国家及び共同体の真理とは、公共の精神と主観的精神が統一されることです。

法律とは精神の客観的現れであり、理性の真実の姿であって、法律に従う精神だけが自由であります。

客観的意思と主観的意思が調和できるのなら、法律による制限と個人の自由は対立しません。

国家抜きのいわゆる自然状態という自由では、野蛮な状態、粗野な情熱や暴力行為がつきものですが、国家がこれらの未開の粗野な状態を制限することによって、初めて理性的な自由を追求することができるのです。

しかし、例えば国家には支配する者と支配される者の関係があり、そこに自由が芽生えるには、支配する者ができる限り客観的自由を意識し、市民の服従する部分を最小限に抑える必要がある、など問題はいくつも抱えています。

 

国家は芸術や法や道徳や宗教や学問の基礎にもなっています。

主観的意思と理性的意思の統一を認識するには宗教が一番です。そこでは客観的自由が重要で、個人的自由は制限され、見事な調和がみられます。

次に芸術があります。芸術も主観的意思を究極まで突き詰めていった結果、それが主観的意思に通ずるからこそ万人を感動させることができる。まさに統一の実例であると言えます。

最後にくるのが哲学であり、これも理性的意思を主観的思惟によって追求する方法として、最も高度な技術になります。

 

(続くかも)