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ラカン入門 その3

哲学

以前の記事まとめ:

ラカン入門 その1 - Expliquer

ラカン入門 その2 - Expliquer

 

欲望について考えてみよう。欲望は欲求とは異なり、言葉を扱う人間固有のものである。赤ん坊にはまだ欲望は存在せず、生体的な欲求しか存在しない。赤ん坊は欲求が高まった時、泣き声を上げるがこれは生体的な緊張が高まったために起こる反応であり、それはまだ言葉ではない。そもそも赤ん坊にはその泣き声が自分のものかどうかすらわからないはずだ(まだ自我が存在しないから)。しかし、その泣き声は結果的に母親に対する要請となり、母親は自分の満足を満たす印になる。これが繰り返されることによって初めて、赤ん坊は自分の泣き声が母親の現前に対する要請になっていることを理解する。

このことをラカン用語を使って説明してみよう。まず、赤ん坊の生体的な欲求は現実界のものである。それらを赤ん坊は泣き声であったり、もう少し成長すればおねだりのような要請によって満たそうと試みる。この「要請」は言葉であるから、象徴界のものである。つまり、現実界の欲求を象徴界の言葉によって満たそうと試みるのである。しかし、これは実は不可能である。例えば子供は母親に色々なおねだりをする。これに対して母親は、ただ機械的に対応したとする。これを続けると、子供は食欲不振に陥ったり、おねだりをやめてしまうことがある。なぜならば、子供が母親に要求しているのは愛情であり、本当はただ優しく頭を撫でてあげれば子供は満足する、という場合があるからである。このように、言葉による要請は行われるが、それは得てして言葉通りのものを要求しているのではなく、本当に望んでいるものは言葉によっては表現できない何ものかであったりするのだ。まるで面倒くさい女のような話であるけれど(冗談です)、そのことからわかる通り、このような事態は決して珍しいことではない。例えば「自発的な愛」は要請によって得ることはできないだろう。なぜなら要請してしまったならばそれはもはや自発的な愛ではなくなってしまうからだ。

欲望とは、このように欲求と要請の間のズレを埋めようとするものである。欲望は言葉による要請と関わるからこそ、冒頭で述べたように人間固有のものである。これは深く考えると、言語がパフォーマティブな側面とコンスタティブな側面を持つというこの二面性とも大きく関係があるであろうことは理解できるが、それは少し難しい話であるし、ラカンの図による説明はよくわからないので今は深入りはしない。

 

次に、子供は母親の愛をうまく獲得することができたとしよう。つまり、子供は母親の愛情の対象となることができたということである。しかし、母親はもちろん家事や買い物などやらなくてはいけないことがあるから、常に子供の前に母親がいる訳ではない。すると、子供は母親の不在に対して疑問を抱くようになる。「母親には自分とは別に愛情の対象がいるのではないか」という考えを子供は持つようになる。この疑問に対する子供の答えがいわゆるファルスとなる。そしてこれによって子供と母親とファルスという想像的三角形の関係が生まれる。子供は、母親の愛を独占するために、このなにやらよくわからないファルスに同一化しようと試みるのだ。

ただし、母親の欲望というのは実は「無」である(これはまだ深く考えなくて良い)。となると、子供は無に同一化しようとすることになり、これは極めて危険なことである。その危険を回避するために、父親の次元が必要になってくる。父親は子供が母親のファルスになることを禁止する。これがいわゆる去勢脅迫である。もちろんこれは子供にとって苦痛であるが、避けるべきではない重要な苦痛である。これによって子供は母親のファルスに同一化することを諦めることができる。男の子であればそれは自らのファルスを保持し、父親を理想として父親に同一化しようと思うことになる。女性であれば父親に愛されることによって、父親のファルスに同一化しようと思うことになる。いずれにせよ、ポイントは去勢脅迫によって厳格な法を持つ父親に目を向けることになり、それによって超自我が生まれ、気まぐれな母親の法に振り回されることがなくなるということである。

 

ここでいう母親や父親というのは文字通りに受け取るべきではなく、メタファーだと考えるべきであろう。つまり母親の代わりは保母でも良いだろうし、父親も文字通りの父親である必要はない。そのように考えると、父親の役割というのは「父性隠喩」と呼ぶことができる。子供は「子供と母親とファルスという想像的三角形」に巻き込まれ、このような闘争的な想像界においては非常に苦しむことになる。父性隠喩は象徴界による法の統制をもたらすことになり、それによって生きるための軸を得ることができるのだ。逆に、父性隠喩を失ってしまうことは神経症などの原因にもなり得る。そのような意味で、これは非常に重要なものであることを強調しておく。

 

これらの話は最終的に「主体」の話につながる。主体というのは人間が象徴界という言語の世界に突入することによって生まれる。しかし、この世界にはひとつの問題がある。主体は自らを表すシニフィアンを持たない。これはイメージとしては、主体を人間の中心的な統一者として見なすこととは反対に、主体とは玉ねぎの皮のように中身は何もなく、その層を一枚ずつ剥いでいったら、後には何も残らない、そのような者として見なすことである。つまり、主体は自らが何者であるかは知らないということであるし、先ほど言った母親の欲望は無である、ということにもつながる。とにかくこの無知、あるいは知の欠如が主体の本質であり、これを満たすことはおそらく構造的に不可能なはずである。それゆえに、主体あるいは人間は例えば芸術活動を続けるだろうし、それは永遠に終わらないはずである。あるいはそれがいつの日か終わるのであれば、その時人間は自らを完璧に表すシニフィアンを見つけていることになる。

 

大雑把だが、以上がラカンの初期の思想のあらすじである。なぜラカンの記事だけこのような口調になってしまうのかは不明だが、「死(タナトス)の欲動」など興味深いテーマはまだあるので、いずれ続きを書くかもしれない。

子供の涙

哲学 道徳

今回の話の根底にあるのは、価値に関する話です。価値観というのは僕たちにとって一番重要な判断基準です。合理的に考えるならば、僕たちは基本的により価値があると思うことから優先的に行動するべきでしょう。しかし世における常識的な価値観は多くの場合粉飾されています。その結果、僕たちは正しく合理的に行動することができていないのではないか、と思うのです。今回はそれを明らかにしてみるつもりです。

まず、僕はいわゆるhumanitarian(人道主義者)の粉飾に対していくつかの批判を行うことができます。彼らは「人類を愛する」と宣言する。なるほど、それは素晴らしいことであるし、僕だってそのように感じることはあります。しかし、僕たちが「人類を愛する」と宣言する時、「人類」という言葉はきわめて抽象化されています。そして抽象化された「人類」を愛することなんて容易いことであるし、それは無知によるひとつの思い込みにすぎないのです。本当に難しいのは、「人類」の本性を見つめた上で「人類を愛する」と宣言することです。

人類の本性の一つに残虐性があります。例えばある人間はわざわざ母親の前でその子供を殺し、人の耳を壁に釘付にして一晩おいてから銃殺し、言葉を覚えたばかりの子をあらゆる手段を使って虐待します。このような凶悪な事件に対して人々は「こんなのは人間のすることではない」と非難しますが、これを聞くたびに思わず笑ってしまうのは、これがあまりに皮肉だからです。この非難は全く的外れで、「こんな残虐なことをするのは人間以外にいない」のです。動物にはこんなひどいことを思いつくことすらできません。彼らにできるのはただ単純に攻撃することくらいでしょう。このような残虐な事件は、人間にしか行うことができないという観点から見ると、むしろ「きわめて人間的」な事件なのです。

もちろん、そのような残虐さを理解した上でも人を愛することはできるかもしれません。しかし、それはあたかも対岸の火事を見ているような愛のように思います。もしもあなた自身が、あるいはあなたが愛する人が、そのような残虐な事件に巻き込まれてしまったとして、それでも本当にその犯人を愛せるのでしょうか?

 

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さて、ここまでの話は人道主義者に対する批判でしたが、これは政治家や実業家や医者に対してもある程度当てはまります。「国民のため」「クライアントのため」「患者のため」と宣言することはもちろん良いことだと思いますが、ここでも重要なのはそのテーゼはむしろ国民、クライアント、患者に対する無知から生じているし、それは人道主義者と同様のきれいごとである、ということです。なので、この批判は僕たち全員に関係するものである、ということに注意していただきたいです。

 

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ここから先は、「僕」に対する2種類の反論を想定してみます。ひとつは「それでも人類(あるいは国民、クライアント、好きなように言い換えてください)を愛することができる」というものであり、ふたつめは「人類を愛することはできないが、人類のために何かをすることは使命である」というものです。僕はこれらの両方に対してたったひとつの批判をお返しすることができるし、それはやはりこれらの反論が「抽象性」に頼っていることに対するものです。

さっきから「抽象性」という言葉をむやみに使っていますが、抽象性に頼る愛とは何なのでしょうか?逆に考えてみましょう。「抽象性に頼らない愛」はあるのでしょうか?それは子供、特に不幸な子供に対する愛情です。不思議なことに、僕たちは大抵の場合それがどんな子供であっても、たとえ醜くても意地が悪くても、その子供を愛することができます。あくまで「比較的抽象性に頼らない」、つまり具体的な対象としても子供を愛することができる、という限りのことですが、このような傾向は確かにあると思います。

どうして具体的な対象としての子供を愛することができるのか、というのはなかなか難しい問題なので今回は触れないでおきましょう。僕が言いたいのはそのような「無知によらない愛」、つまり抽象性に頼らない愛というのは、「無知による愛」、抽象性に頼る愛よりも価値があるのではないか、ということなのです。

カラマーゾフの兄弟」におけるキリスト批判もこの視点に基づいています。さっきの僕に対する反論に戻りましょう。まずはじめに、「それでも人類を愛することができる」というキリスト的な愛による反論に対して。世の中には僕たちの想像を超えるような、まさに地獄のような経験をしている子供が何人もいます。彼らはどうして自分たちがそのような目に合わなくてはいけないのか理解もできず、ただ涙を流して「神ちゃま」に切願するでしょう。この子供の涙を僕たちは必要な犠牲だと考えて、彼らを徹底的に虐待するような者ですら愛するべきなのでしょうか。僕はそれはおかしいと思います。はっきり言って、この子供の涙よりも価値があるものなんて世の中にはないんじゃないかと思います。そしてそれは子供に対する愛が、無知によらない、真正な愛だからです。少なくとも抽象化され粉飾された愛を、僕は信じることはできません。

そして、「人類を愛することはできないが、人類のために何かをすることは使命である」という二つ目の反論に対して。僕には理解ができないのですが、どうしてどこの誰とも知らない馬の骨に対して何かをすることが使命になり得るのでしょうか?百歩譲ってそれが使命になり得たとしましょう。しかしそれよりも価値のある、やるべき使命はいくらでもあるのではないでしょうか?少なくとも現実における子供の涙よりも、未来のよく知らない誰かさんの満足のために何かをやることがより価値があるとは思いません。未来の子供のため、というならまだわかるのですが。

 

誤解しないでいただきたいのは、「国民のため」…になにかをする人の足を引っ張りたいということではなく、僕はただそのテーゼが「無知によるもの」であるという観点から疑問符をつけたいだけなのです。さらに言えば僕はそれよりも価値のあるもの(つまり子供の涙のようなもの)が存在するのではないか、と言いたいのです。

そして 猿とバナナと多様性 - Expliquer で述べたように、たとえ子供が涙を流さないことに価値があったとしても、それを直接求めるべきですらないかもしれません。国民のため、人類のため、クライアントのために何かを努力して行うことが、リンゴ効果として子供の涙をよりよく防ぐことにつながるかもしれません。しかし、最終的に求めるもの、価値があるもの、つまりバナナは何であるのか。これに関する議論はもっともっとあっても良いと思います。

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My Favorite Things

特になし

-「The Catcher in the Rye」 by J.D. Salinger

 

高校生の頃に10回くらい読んだ、まさにアンチヒロイズムという言葉がぴったりな青春小説。世の中高生はぜひともこれを手にとって、社会の矛盾について考えてみて、弁証法的に考えを深めていってほしいです。

 

-「The Great Gatsby」 by F. Scott Fitzgerald

 

村上春樹も太鼓判を押す、米文学の金字塔。とにかく英文の美しさに圧倒されます。世の中高生はぜひともこれを手にとって、英語の勉強に対するモチベーションを高めていってほしいです。

 

-「Partitas(Bach)」 by Glenn Gould

 

僕が一番辛かった時に心の支えになってくれた音楽です。ラカン風に説明すると、精神的に辛い時というのは、おそらく想像界における闘争に疲れてしまう時です。グールドのパンクチュエーションの効いた奏法は、そこに象徴界のような秩序を与えてくれます。僕にとってグールドはひとつの父性隠喩なのです。

 

-森山大道(写真家)

 

改装中のエレベーター、ゲームセンターに熱中する子供、歌舞伎町のホストクラブの看板、すたびれたホテル街、高級ブランドのディスプレイ、うずくまるホームレス、おもちゃの散乱する商品棚…。いつも僕たちが目にしている「当たり前のもの」が、見過ごしてしまうような風景が、不思議と幻想的に、奥ゆかしく、エロティックに、浮かび上がります。

 

-「Plastic Beach」 by Gorillaz

 

デーモンアルバーンの率いる、イギリスの架空のカートゥーンバンド。「なんかちょっと気持ち悪いけどカッコイイ」ところがぞっとするくらい魅力的。独特なのではまる人ははまります。

 

-松尾芭蕉与謝蕪村

 

俳句と言えばこの二人、というくらい、ずば抜けて天才的です。日本語の詩に興味があるのなら、彼らを読むか、茨木のり子の「詩のこころを読む」という本から始めるのがオススメです。

 

-友人関係

 

「何きれいにまとめようとしてるんだよ」という感じですが、個人的には一番気楽なのが友人関係です。友人関係にはアメリカ式と日本式があって、アメリカ式では友人はほとんど家族のような存在であり、兄弟に近いです(海外では友達を"brother"と呼んだりしますよね)。一方で日本式というのは少し他人行儀ですが、よく言えば何の後腐れもないし、義理もないし、自由な関係です。どちらも僕にとっては欠かせない存在です。

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人はロボットを愛することができるか

人工知能 哲学

いくぶん幼稚な問題設定と思われるかもしれませんが、これは考えてみると重大な問題であることがわかります。なぜなら人が当たり前のように、何の抵抗もなくロボットを愛し、例えばロボットと結婚するようなことさえふつうの出来事になるのだとすれば、これは紛れもなく大きなパラダイムシフトを生むことになるからです。そして、僕の個人的な意見としては、そのような世界は(いくぶん先のことになるかもしれませんが)必ずやってくると思います。その根拠として、いくつかの予兆を指摘することができます。しかしその前に、人が本当にロボットを愛することができるのかについて、簡単に議論をしておきましょう。

 

少なくとも現代では、これを否定する意見はとても根強くあると思います。ロボットには人間性がない、ロボットは生きていない、ロボットは感情を持たない。ロボットに愛されることがない以上、ロボットを本当の意味で愛することはできない、などなど。これらに対して反論を上げておきます。まず第一に、人間がちょっと複雑なロボットの一つに過ぎない可能性は十分にあります。人間自体がただの物理現象である以上、そのように考える方が自然なくらいです。となると、人間同士の愛情とロボット間での愛情は区別しようがないことになります。

しかし、あくまでロボットには生命がなく、人間には生命がある。そのように仮定しましょう。それでは、生命のないものを人は愛することができないのでしょうか?

人間同士の愛とは異なるかもしれませんが、生命のない「もの」自体を愛することは可能です。例えば人形を愛することだってできるし、音楽や絵画を愛することだってできます。確かにそれは人間同士の、双方向的な愛情とは異なり、一方通行の愛かもしれません。また、人間が音楽や絵画を愛するのは、そこに人間性があるからだ、と思われるかもしれません。

これに関して言えば、まず第一に、それは本当に一方通行の愛なのでしょうか?少なくとも僕たちだって、人間同士で愛し合う場合でさえ、「相手が本当に自分のことを愛しているかはわからない」はずです。極論を言ってしまえば、双方向的な愛は存在しなくて、「自分が相手を愛し、自分が相手も自分のことを愛してくれている」と感じているだけかもしれません。いくぶん歪んだ考えですが、相手から自分に対する愛とは、自分が相手が自分のことを愛してくれていると感じることである、つまり自らそこに愛を見出しているに過ぎないかもしれません。それならば、ロボットの機械的な相槌や仕草にだって、人間は愛を見出すことだってできるはずです。となれば、人間の解釈次第で、ロボットと双方向的な愛を育むことは理論上可能だと思うのです。

第二のポイントとして、人は絵画や音楽を愛するようにロボットを愛することはできない。なぜならロボットには人間性がないから、という意見に対して。これは大きな誤解です。その誤解を解くために、人間の「人形」に対する愛を見てみましょう。人形なんて興味ない人もいるかもしれませんが、人形だって絵画や音楽と同じくアートであり、そこに本質的な優劣はありません。つまり絵画や音楽を愛することができるならば人形を愛することだってできるはずであり、人形を愛することができるならばその上位互換であるロボットを愛せないはずがないのです。そもそも、ロボットに人間性がないと思うことが間違いであり、偏見なのです。僕はむしろ、ロボットは現代のアートの枠組みを超えるような、究極的なアートになり得るのではないか、と思います。

最後に、ロボットに対する愛は人間に対する愛と多少異なるかもしれませんが、これはロボットの「リアリティ」の問題に過ぎない、と僕は思います。人間に似たロボットはいくらでも作ることができるはずであり、ロボットは無限に人間に漸近していくことが可能だと思います。そしてどこかのポイントで、簡単にはロボットと人間の区別がつかなくなるでしょう。そうなれば、ロボットに対する愛と人間に対する愛の区別だって事実上見分けがつかなくなっていくはずです。問題はその区別がつかないほどの「リアリティ」を実現できるか、それだけです。つまり、それは技術的な問題なのです。

 

以上の議論により、僕は人間がロボットを愛することは理論上できる、という立場をはっきりさせることができたと思います。それでは、理論上できてもそれは実際に起きることなのでしょうか?これも面白い問題で、僕は理論上できるならばそれはかなり高い確率で起きると思っています。

なぜならロボットとの恋愛は人間との恋愛よりも成功させやすいからです。例えばルックスに関して言えば、いくらでも好みの異性のロボットを作れるはずです。性格だって趣味だって好みにカスタマイズできます。「そんなの面白くない」というのは一理あります。これに関して言えば、人間はロボットと恋愛するか、人間と恋愛するかは未来においても選択する余地があるでしょうし、「やっぱり人間を愛したい」というのであれば、そうすればいいと思います。問題は、おそらくそれを選択する人はこれからどんどん少数派になっていくであろう、ということです。うまくいかないリアルよりも、確実にうまくいくヴァーチャルを選択するようになるだろう、というのが僕の予測です。実際に、そのような予兆はいくらでも挙げることができます。アニメしかり、アイドル信仰しかり、ゲームしかり。現代ではそのような「オタク」たちはかわいそうな目で見られるかもしれませんが、その視点はこれから180度反転して、「リアル派」の人たちの方がかわいそうな目で見られるようになるかもしれません。

 

もちろんこれは確実な話ではありません。あくまで一つの予測です。しかし、予測をしておくことはそれなりに重要です。既存の常識なんていうのはいくらでも崩れる可能性があり、新しい常識に備えておく必要があるからです。なかなかcontroversialなトピックですが。

悪口とユーモア

哲学

全てのユーモアが悪口と関連があるというつもりはありませんが、現代の多くのコメディアンは、日米を問わず、悪口と密接な関わりを持つことは指摘できると思います。日本で言えば代表的な芸人は有吉ですが、他の芸人も悪口や「いじり」によって笑いを取ることは多いです。また、海外のコメディアンも、僕が見る限り(一理あるにせよないにせよ)悪口を利用している場合は多いです。

どうしてそのような現状になっているのか?まずはじめに、ユーモアと悪口はくっつきやすいという事実があります。哲学者のアンリ・ベルクソンが指摘する通り、あえてユーモアの反対物を指名するならば、それは「優美さ」ということになり、ユーモアはその反対の「不格好さ」ということになると思います。そして優美さは賞賛と結びつきやすく、不格好さは悪口と結びつきやすいので、このような現状はある程度仕方のないものだろうと思います。(もしも賞賛によって笑いをとったならば、おそらくそれは皮肉だからです。なので皮肉な賞賛も悪口に分類していいと思います。)

しかし、もう一つの原因があるとすれば、それはコメディアンではなく大衆にあると思います。大衆に受けるユーモアというのは分かりやすくなくてはなりません。高級なユーモアよりも低級なユーモアの方が大衆には受けるのは、そっちの方がわかりやすいからです。例えばねずっちの(ちょっとだけ)知的な謎かけは、拍手は受けても笑いはほとんど取れません。一方で、有吉が「(先輩芸人の名前)とかけまして、玉ねぎの皮と解きます。そのこころは、どちらもゴミくずです。」と言った時の方が大爆笑をとっていて、ちょっと興味深いなと思いました。有吉の発言が面白いのは、もちろんそれがうまい謎かけであるからではないし、また謎かけのルールを無視しているから、というのも本質ではありません。それはただただ悪口であるから面白いのです。

 

それでは悪口とは一体何者であり、それはどうして面白い場合があるのか?まず悪口を定義するならば、僕は「表層的偏見」になるだろうと思っています。表層的というのはひとつ重要なポイントです。例えば最新のファッションなんかは嘲笑の的になることが多いですが、その根底にあるのはファッションに対する「無理解」です。もちろんファッションに理解のある業界人が笑ってしまうこともありますが、その人も笑ってしまうその瞬間には、ファッションの奥深さや意味するところを忘れ、むしろそれを忘れることによっていかにそのファッションが滑稽に見えてしまうかに気がつくことによって笑ってしまうのです。

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また、偏見であるというのは、悪口が真実である必要はないことを示しています。しかし一方で、偏見である以上「悪意のある見方をすれば確かにそのように見える」ということも示しています。

これらが「悪口」の本質だろうと思います。このことから分かることは、他人の言う悪口は全く真に受ける必要がないということです。また、この時点でようやく「悪口」と「批判」を区別することができるようになります。批判は悪口と対照的で、それは「本質的」であるべきであり、「偏見」であってはならないということになります。なので、批判は聞く耳を持つべきだと思いますが、悪口は全く聞き入れる必要はないだろう、と僕は思います。

 

悪口は笑える場合もあるかもしれませんが、僕はこれに真面目に関わるのはやっぱりやめとこうと思います。そのかわり、批判はできるようになりたいです。そのためには、もっと深く物事を見なくてはならないだろうと思います。頑張ります。

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自己批判

特になし

ヘイトスピーチってありますよね。ヘイトスピーチのイメージが悪いのは、たぶん内容が薄かったり的外れだったり揚げ足取りだったりするからじゃないかと僕は思います。でも、ヘイトスピーチ自体は僕は大事なものじゃないかと思うのです。そういう悪い見方をすることも必要だと思うからです。もちろん、悪口ばかり言っている人はただのクズです。でも良いところばかり探そうとするのは偽善者です。僕としては良いところと悪いところを両方見つけて、思ったことを正直に言えるようになりたいです。

それで、人の悪いところを指摘する際に、自分の悪いところを考えていないのはあまりフェアじゃないんじゃないかと思いました。なので今回は自己批判をテーマに書きたいと思います。徹底的に自分自身に対して悪口を考えてリストアップしてみました。

ひとつ目は「社会のクズ」です。まぁものは言いようですが、今まで学生として学ぶことだけ学んできて、特に働きもせず、何も社会貢献していないしする気もあまりないという指摘ですね。これは本当におっしゃる通りです。僕は何が社会に役立つだろうかと考えはしますが、基本的にアクションはとっていません。ただの学生だったらこれから社会に出て役立つのだろうと思いますが、僕は今のところあんまりその気がないので、社会からクズ呼ばわりされても仕方ないかなとは思っています。でも、僕は基本的に自分の好きなこと、面白いと思うことを追求して、それが社会貢献につながればいいなとは思っています。なのでクズと言われても否定はしませんが、クズの中では上の方かもしれません。それと、「早く自立しろよ」ということに対して。僕は未だに実家暮らしで、僕も両親には頭が上がらないのですが、「早く自立しないとクズ」みたいな風潮はどうかなと思います。僕には僕のペースがあります。でも自立していないのは事実ですし、これは由々しき事態だろうとは僕も思います。まぁ何とかなると思いますが。

ふたつ目は「妬みが多い」です。これは今はほとんどないですが、昔は結構ひどかったかもなと思うところがあります。例えば僕は人生が順風満帆みたいな人はそれだけで嫌いになれるくらいだったです。でも最近はそもそも他の人に対して興味が薄れてきているのかもしれませんが、冷静に自己分析できるので、本当にそんなことはないです。それと、妬みっていうのを人生で通過しておいたのは、実はすごい良かったんじゃないかと思います。妬みが全くない人っていうのはものすごく心が綺麗な人なのでしょう。でも妬みというきっかけがないと、他の人の悪いところを考えようなんて気はほとんど起こらないんじゃないでしょうか。妬みは本当にくだらないです。そこで止まっているのは本当にくだらないです。でも、妬みがあることによって他の人の悪いところも見つけようとしてみる気が起こるので、それによって妬みを超えて客観的に他人の悪いところをみつけられる可能性が出てきます。本当は妬みなんて通過せずにそれができるのがベストなのだとは思いますが。

みっつ目は、「腫れ物」です。要はセンシティブすぎるだろう、女女しいんじゃないの、ということです。確かに結構傷つきやすかったり、キレやすかったりしたこともあります。でも今ではだいぶ良くなっているだろうと思うんですけどね。それと僕は別に女女しい訳ではなくて、たぶん中性的なだけだと思います。女女しい寄りの中性的かもしれませんが。あまり自分を男らしいと思ったことはないですが、そんなにセンシティブな訳でもないです。でも一般的な意味で腫れ物だろ、と言われたら、まぁそんな気もするので書いておきました。

よっつ目は、「根暗」です。根がネガティブだろ、ってことですね。正直これはよくわからないので、否定も肯定もできません。確かに根はネガティブだと思います。でもやたらポジティブな時もあるので、完全にネガティブに分類したら本当にネガティブな人に対して失礼な気もします。正直どっちでもいいです。

五つ目は「女性が苦手」です。これはまぁ間違いないですね。別に言い訳もしません。本当に色んな理由があるのですが、基本的に女性らしい女性、典型的なタイプの女性がどうしても苦手です。これもよく考えてみると、たぶんもともとは僕が女性にあまりモテなかったからだろうと思います。それでひがみながら女性の悪いところを考えていたら、残念なことにあまりにも多くのことが見つかってしまったということです。女性が嫌いな訳ではもちろんありません。女性は好きです。でもちょっと苦手です。もうこれは全面肯定なので、どんどんいじってくれてOKなくらいです。

六つ目は「男友達も少ない」です。たぶんこれも事実です。女性が苦手なのと合わせると、全面的に人間関係が苦手なのでしょう。それで結局一人でいるのがいいとか言っちゃっている訳です。これが本当に悪口なのかはよくわかりませんが、これも一応書いておきました。

七つ目は「屁理屈クソ野郎」です。口だけっていう意味ならば、これも間違いないですね。先ほども言いましたが僕は基本的にアクションを取るのが苦手です。考えたりするのは得意なのですが。これももう割り切っています。僕は物書きみたいにただ口を出す人になってもいいかなと思っています。それで食べていけるかどうかは別問題ですが。

八つ目は「ガキ」です。これは去年直接言われましたね。そして結構反省しています。僕ももうすぐ24歳になるので、そろそろ大人としての身振りを身につける必要性を感じています。これは言われたらぎくりとするくらい痛いところなので、たぶん本当にその通りです。反省します。

九つ目です。このあたりで「キモい」でも入れておきましょうかね。具体的にどの辺がキモいのかによりますが、まぁ見た目だったり、こんな風に色々暴露しているところだったり、女性が苦手なところだったり色々とあるのでしょうか。もちろんできる限りはキモくないようになりたいと思いますが、これは多分僕にはどうしようもないことなので、あなたが我慢するか、僕の良いところも見るようにするしかないだろうと思います。それでもどうしてもキモいと思ってしまうならば、スッと僕を避けてもらうしかないと思います。別にそれも仕方のないことだと思うので、僕はそうなっても怒りません。

ラストは「偉そう」です。昔よく偉そうにしてるって言われてましたね。今でもそう思われているかもしれません。でも僕は基本的にみんな平等だと思っています。もちろん先輩方や目上の方は尊敬していますが、究極的には誰だって平等だと思っています。でも、もちろん実際には上下関係はあります。僕より下な人もいるし、僕より上な人もたくさんいると思います。でも、僕は何かをこのように公に発言する時は横から目線を心がけています。実際にお会いする時は下からだったり上からだったりするかもしれませんが、少なくともこの場では上から目線はありえませんし下から目線もありえません。おそらく僕のことを偉そうだと思っている人は、僕を下に見ているから横から目線でも気に入らないのではないかと思います。目線なんてものを気にする時点で悪い意味で日本人な気がします。

とりあえず十個考えました。まだまだあるのですがキリがないのでこの辺にしておきます。なんか言い訳がましい感じにもなってしまいましたが、基本的にはこれらの悪口は僕は的外れとは言えないと思います。そして、これだけ自分のことをボロクソに言ったので、僕がこれから何かしらに対してボロクソに言ったとしても広い心で受け取ってみてください。僕はあくまで横から目線で話をするつもりです。

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おもちゃの蛇

哲学

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この動画は本当にしょうもないはた迷惑な行為ですが、ちょっと興味深い部分があります。ここで蛇のおもちゃを見た人は、反射的にそれから逃げようとします。そうすると蛇のおもちゃはその人と糸でつながっているので、逃げようとすることによって動き出してしまいます。なので、本人はまるで本物の蛇が追いかけてきたように感じます。言われてみればなんてことのないことですが、このトリック自体はなかなか興味深いものです。

なぜかというとこれはとても隠喩的だからです。その点を踏まえて、このトリックの構造を一般化してみましょう。要するに、ある人が「蛇のおもちゃ」に対して反射する(この場合逃げ出す)ことによって、その人と蛇のおもちゃが何かしらの「糸」によってつながれているならば、まるでおもちゃが「本物の蛇」のように動きだすように見えてしまう、ということです。キーワードは「蛇のおもちゃ」「糸」「本物の蛇」の3つです。これはもちろん古いトリックですが、後ほど触れるように現代的にも考える意義がある問題です。でもまずは古いトリックとしての働きを具体例で説明してみます。隠喩的な説明になりますが、これを理解するポイントはとりあえずその隠喩を飲み込んでしまうことです。嫌だったら後で吐き出せばいいのですから。

僕が思うに、日本の民話(昔話?)というのはおそらくこのトリックが関係しています。例えば河童というのは柳田國男遠野物語でも有名ですが、これもことの発端はおそらく、川沿いで遊んでいた子供が行方不明になったとか、誰もいない川辺で視線を感じたとか、そういう些細なことだと思います。このような事実は今のところ「蛇のおもちゃ」でしかありません。しかし、その経験をした人はそれを周りの人に話したりするでしょう。これがその人の「反射」です。これによって実はそれは河童の仕業じゃないか、という想像が生まれます。この想像力がいわゆる「糸」です。これによって、この話を聞いた人が川辺で休んでいて、妙な気配を感じたとすると、この糸(想像力)によってその気配は河童、つまり「本物の蛇」のように見えてしまいます。ちょっと強引に感じるかもしれませんが、とりあえずこれは飲み込んでみてください。

それで、現代においてはもちろんこのように河童の話はトリックによる錯覚に過ぎない、と説明できてしまいます。僕たちは昔の日本人よりもいくらか冷静なので、慌てて反射するのをやめて、客観的に観察してみようとします。そうすると実は「本物の蛇」は「おもちゃの蛇」に過ぎなかった、ということが分かります。そして僕たちは現実主義者になり、想像力という「糸」を断ち切ります。そうすればもはや「おもちゃの蛇」は完全に静止します。これ以上僕たちの反射に応じて動き回ることはないからです。

注意してほしいのは、僕は別に糸を断ち切ってしまったことを批判したい訳でもないし、それを肯定したい訳でもありません。僕はこの一連の「ストーリー」に興味があるだけです。そしてこれをひとつのストーリーとして眺めると、ちょっと感傷的になってしまう自分がいます。子供は小さいうちはよく人形とかで遊んだりしますが、大人になるとちょっとずつ関心が薄れていきます。これは多分人形が「蛇のおもちゃ」に過ぎないということがわかってくるからです。もちろん、人形に興味を持ち続ける人もいます。でも彼らもやっぱり「糸」を一度断ち切っているはずです。その上で別の「糸」を紡ぎ出して、彼らはそれによって遊んでいるのです。でもその新しい糸は人工的なものです。それは僕たちが映画を見る時に使う糸です。映画を見る時、僕たちはそこに登場する俳優を見るのではなく、俳優が演じる役をみます。僕たちは「ジャックスパロウ」は本当は「ジョニーデップ」であることを知っていますが、そのことを一旦忘れて、「ジョニーデップ」を「ジャックスパロウ」と見なします。映画を楽しむために、わざと自分をそのように騙すのです。この騙しが僕たちの新しい糸です。

でも、昔の日本人の使っていた「糸」は本質的にこれとは異なります。それは天然のものであり、新しい糸のように「自分たちが楽しむために作り出した糸」とは全然違うのです。このように、もともとあった糸を断ち切り、それを再構築するというストーリーに対して僕は感傷的になるのです。これは一度死んでしまった愛犬をロボットとして蘇らせるようなものです。そのロボットは、かつての愛犬と全く同じ姿をして、全く同じ反応をするかもしれません。少なくとも客観的に見れば、愛犬とそのロボットを区別することができないとしましょう。でも、僕たちはそれがロボットであり、本当は生きていないことを「知っています」。このストーリーが結構本質をついている気がして、そう考えるとちょっと物悲しいです。

僕は柳田國男遠野物語にはまっていたことがあります。遠野物語のすごいところは、あれは現代的な意味での「フィクション」とは違うというところです。彼らはおそらく本当に「河童」とか「座敷童子」を信じていたはずです。そのような意味で、もはや遠野物語は虚構的なフィクションではないのではないか、と僕は思います。遠野物語はかつての愛犬であり、生きていたのです。しかし、現代における物語はほとんどがロボットです。それは生きているように見えたとしても、本当は死んでいます。

これは僕のひとつの現代観です。でも、これ以外にもあるし、この続きもあります。現代でもちゃんと生きている物語があるからです。でも、それらは別の機会にまた改めて書こうと思います。

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