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批判における落とし穴

哲学

「批判するのはよくない」と言う人がいます。個人的には批判は良いところも悪いところもあると思うのですが、この発言の正否以上に僕が気になるのは、この発言自体が批判になってしまっているという点です。なぜなら「批判はよくない」というのは批判に対する批判だからです。となると、このように言う人はちょっと矛盾しています。批判がよくないならば「批判するのはよくない」なんて言うべきじゃないのではないでしょうか?

この種の落とし穴はいたるところにあって、結構危ないです。この前もfacebook上で、「他人のことをどうこう言うな」と言っている人を見かけたのですが、この人自身が他人がどうこう言うことに対してどうこう言っているので矛盾しているな、と思ったものです。そして僕自身もこのように矛盾したことを言ってはいないだろうか、と不安になりました。

また、これと似た問題で、ある社会で「あらゆるルールを作ってはならない」とみんなで決めたとしましょう。この時この人たちは「あらゆるルールを作ってはならない」というルールをひとつ作ってしまった訳で、やはり矛盾しています。

それではこのような矛盾を指摘して、「はい論破」と言うのが正しいのでしょうか?それはちょっと違うのではないか、というのが僕が今回言いたいことです。このような矛盾の揚げ足取りは、脱構築批評家たちの得意とするところらしいです。詳しくは知りませんが。しかし、それが本当ならばこの揚げ足取りは実は間違っている可能性があり、脱構築批評家はこの可能性に関して少し鈍感なのではないかと思うところがあります。というのは、完璧にこの揚げ足取りを回避する方法があるからです。

その方法はタイプ理論と呼ばれるものです。英語ですがhttp://plato.stanford.edu/entries/type-theory/に詳しく書いてあります。簡潔に言うと、例えば「批判」と「批判に対する批判」、「批判に対する批判に対する批判」、…を区別することです。「批判するのはよくない」と言っている人は、暗に「批判」はよくないが、「批判に対する批判」はしてもよい、と考えているのかもしれません。同様に、例の社会は「ルール」と「ルールに関するルール」を区別しているのかもしれません。なので、「ルールは作ってはいけないが、ルールに関するルールは作ってもよい」と考えているかもしれません。そのように考えると、実は彼らは全く矛盾していないのです。

では、結局脱構築批評家は完璧に敗北していて、それで終わり、ということになるのか?それもまた極論である、という話になってしまうと思います。結局のところ「批判の批判」も「批判」の1つだから、勝手に区別しちゃダメだろう、と言えてしまうからです。

なので重要なのは脱構築批評もタイプ理論もどっちも一理あるということを理解することです。この落とし穴にはまってしまった、あるいははまっている人を見たら、両方の考え方から見ることが大事だと思います。それで「これはちょっと脱構築批評に分があるな」とか「これは完全にタイプ理論で考えているんだな」とか、ケースバイケースで考えるしかないだろうと思います。日常的に役に立つかはわかりませんが、知っておいて損はないと思うので書いてみました。

孤独について

哲学

僕は基本的に「どこか静かなところで一人で暮らしたい」と思うのですが、これはかなり誤解を生みやすい言葉なので、一度はっきりと説明しておいた方がいい気がします。まず、当たり前ですが「静かなところ」というのは自分の声も聞こえないような無音室で生活したい訳ではありません。同じように、「一人で暮らしたい」というのは無人島で自給自足したいというほど極端な話ではありません。僕が言わんとしているのは「あまり強く干渉を受けたくない」というだけのことです。より正確に言うならば「誰にも干渉してほしくない部分がある」ということです。これはどういうことなのか?それを説明するために「孤独」という概念について説明してみます。

孤独と一言で言っても様々な種類があり、どれも少しずつ色味が異なります。しかし代表的なものとしては大きく4つのタイプに分けることができると思います。1つ目は、「無人島で一人で暮らす」というタイプの孤独です。完全に世界から隔離されている状態ですね。2つ目は、「透明人間になる」というタイプの孤独です。世界から隔離されているのではないし、人のいる社会で生きているが、世界から無視されるという状態です。もちろん完全な透明人間になることはありえないですが、学校や会社で無視される、というケースのように、このタイプの孤独を感じることは誰だってあります。3つ目は「四面楚歌」タイプの孤独です。以前の2タイプとは違ってあなたが存在することは認めてもらえますが、みんなが敵であるという状況もひとつの孤独です。最後は「みんなとのつながりが偽りである」タイプの孤独です。例えばめちゃくちゃお金持ちの子供がいて、周りの人はみんな寄ってくるけれど、みんなお金目的に寄ってきているというケースもある種の孤独です。

もちろんもっと他の種類の孤独もあります。例えば「夫婦二人だけで無人島で暮らす」というタイプの孤独などです。でも、とりあえずはこの4つのタイプに絞って分析してみましょう。そうすれば他のタイプの孤独も分析できるようになると思います。

まず、1つ目の「無人島」タイプの孤独について。僕は最近家にこもって勉強しているのですが、このタイプの孤独はこれに近いです。でも個人的にはこれは結構好きです。プラスに考えれば、無人島がまるまるあなたのものである状態なわけで、これほど贅沢なことはないです。僕は誰でもたまには自分だけの無人島で時間を過ごすべきだと思っています。なぜなら僕が先ほど言った「誰にも干渉してほしくない部分」というのは「誰にも干渉されずに自分だけのものとするべき部分」であり、これを見つめる時間は貴重だと思うからです。

しかし、たまに寂しくなると僕はカフェで勉強します。これは2つ目のタイプの孤独に近いです。カフェには人はいますが、ほとんど僕は透明人間の状態だからです。でも、これも個人的には結構好きです。詳しくは割愛しますが、透明人間も考えてみると気楽で楽しいです。

それでは、3つ目のタイプについて。ここからは他の人との関係を考慮しなくてはならなくなりますが、「他の人との関係」の代表例として「友人関係」を考えてみましょう。そもそも「友達である」とはどういうことなのか?深く考えると難しいですが、簡単でそれなりに実用的な定義はこうです。僕とあなたが友達かどうかは、①僕が「あなたと僕は友達である」と言って、また②あなたが「君とわたしは友達である」と言って、③お互いに嘘をついていない、という3つの条件を同時に満たすかどうかです。ここでとりあえず僕はあなたに対して「あなたと僕は友達である」と言ったとしましょう。基本的に僕はみんなに対してそう思っていますし、嘘はつかないように努力しています。それに対して、あなたの反応は「君とわたしは確かに友達である」と肯定するか「友達じゃないよ」と否定するか、さらに正直に答えるか嘘をつくかで計4通りに分かれます。ここで「いや、わたしは君を友達と認めない。なぜなら…」と友人関係を否定し、さらに嘘はついていない、つまり本心からそのように答えたとします。これは明らかに3つ目の「四面楚歌」タイプの孤独と深い関係があります。でも、僕はそう言われたとして、たとえ傷ついたとしても、そう答えた人に対して尊敬の念を抱くことができます。なぜならその人は少なくとも正直に答えてくれたからです。なので3つ目のタイプの孤独というのは、別に全然悪いことじゃありません。もちろん避けるに越したことはないですが、僕はこのような孤独は嫌いではありません。なので僕のことが本心から嫌いな人はそう言ってくれてOKです。僕は少なくともそのことについてrespectします。

僕が最も嫌うのは、むしろあなたが「君とわたしは確かに友達である」と答えたが、あなたが嘘をついている場合です。これは最後のタイプの孤独と関連しています。僕はこれは基本的に嫌いだし、このタイプの孤独に何も関心を抱くことができませんが、これも避けることはできない場合があるので、この回答が常に悪いというつもりはありません。例えばジャイアンに肩を組まれて「おれとお前は友達だよな?」と言われたら、僕は殴られたくないので嘘をついてでもイエスと答えると思います。この種の回答はひとつの平和条約のようなものだと考えると、それなりに納得がいくし、社会で生きていく上では不可欠なものだと分かります。でも、やっぱり僕はあんまりこれは好きではないです。というか単純に興味がわかないです。

長くなりましたが、まとめると孤独にも様々なタイプがあり、色がありますが、ある種の孤独はとても興味深いので、追求する価値があると思います。人生をひとつの絵画に例えるならば、孤独の深い青色はあなたの人生に奥行きを与えることができるでしょう。でも別にそんなのいらないって人は全然孤独を追求する必要はないとも思います。そもそも孤独を追求するというのは結構リスキーなことなので、そこにこだわりすぎるのはあまり賢明ではないです。しかし、ありきたりに「適度に孤独を楽しみましょう」と結論づけるのは嫌なので、大事なことを最後に付け加えておきます。大事なのは「自分に合った孤独を楽しむ」ということです。孤独にも様々な色があると述べましたが、あなたに合う色とあなたが好きな色は異なる可能性があります。ただただ好きな色を追求するのではなく、自分の肌に合う色を考えてみるという視点も面白いと思います。

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Expliquer

哲学

「説明する」とは「視る」ことである。「AをBによって説明する」とは「AをBという様式に従って視る」ということであり、例えばA=恋愛、B=物語とすれば、これは恋愛小説になる。

「視る」というのは単純だが、強力なアナロジーである。例えば数学について考えてみよう。数学において、「視点」は「公理」に対応する。例えば僕たちは公理をあまり意識せずに数学について論じることができるが、これは視点をあまり意識せずに物事を視ることができるという事実と一致するし、もしもその気になれば「視ているもの」から遡って、例えば定理を論理的に分解することで、視点がどこにあるか、つまり公理が何かを明らかにすることができる。それだけではない。ゲーデル不完全性定理とは、証明も反証もできない命題が存在することを示しているが、これはひとつの視点から全てを視ることができない(例えば背後など)ことと一致する。さらに、ひとつの視点からは自分がいる位置自体を視ることはできないが、一歩後ろに下がればその位置を視ることができる。これは公理が自分自身から矛盾が導けるか否かを証明することはできないが、一歩後ろに下がる、つまり公理を少し拡大すれば、その矛盾性についても論じることができる、ということである。もちろん、いくら後ろに下がっても全てを視ることはできないので、数学の世界の全てを視ることはできない、ということも明白になる。

それではA=B=言葉としたらどうなるだろうか。今回は一般的な意味の言葉(つまり言語)で考えてみよう。これはつまり言葉の世界を視るということである。言葉の世界とは何か?ラカンの言葉を使えば象徴界ということになるのかもしれないが、わかりやすく説明してみる。例えば本を読むとき、僕たちは文字を視認する訳だが、文字を眺めている訳ではない。僕たちが本を読むときに頭の中で描いている世界、それが言葉の世界である。

この言葉の世界において、僕たちは言葉を用いて思考をしているとは限らない。むしろ、言葉によって思考させられている言ってもおかしくはない。これもわかりやすく説明してみよう。

画家はこのように語ることがある。「私たちがものを見ているのではなく、ものが私たちを視ているのだ。」ある画家が山を視る時、彼は山を無意識的な衝動によって視せられているとも言えるし、網膜に光を照射させられることによって視せられているとも言える。インスピレーション(吸気)とは文字通り、絵画の世界で息を吸い込むことである。画家が一方的に絵画を作り出す(イクスピレーション、呼気)のではない。画家は絵画の世界でレスピレーション、つまり呼吸をしているのである。

この議論は言葉の世界でも全く同様に通用する。僕たちは言葉を使う(イクスピレーション)だけではなく、言葉の世界から息を吸い込み、呼吸しているのである。これはまさに以前話したハンプティダンプティの「言葉」と「人」のどちらがご主人様か?という議論のもうひとつの側面である(以前の記事では言葉の意味を人が決めることができるか否か、という話であったが、ここでいうレスピレーションとは言葉によって思考しているのか、それとも言葉に思考させられているのか、という話である)。

さて、それでは言葉の世界において何をどのように視るか?それはあなた次第であり、あなたに決める権限がある。しかし、視たいものだけを視ているのはつまらないだろう。珍しいものだけを視たがるのもつまらない。ひとつ言えることは、たとえ嫌なものでも、社会的にタブーなものでも、ちゃんとそれを視るべきだということである。例えばニーチェに直感的な嫌悪感を感じたり、そこに社会的に不穏な空気を感じるかもしれない。しかしそれらはニーチェから目を背けて良いという理由にはならない。むしろそのようなものこそちゃんと僕たちが直視しなければいけないことなのかもしれない。

もうひとつ言えることがある。今度はどのように視るか、すなわちBについても考えなくてはならない。画家の眼が鍛錬によって凡人の眼以上のものを見ることができるようになるように、言葉の世界も鍛錬によって凡人以上のことが見えるようになる。そこに確立された方法論はないが、ただ言葉を平均的な了解によって見るのではなく、その言葉の意味深さを理解した方が良いだろうと僕は思う。「存在」という言葉は誰だって理解している(平均的な了解がある)が、その意味の深さについては理解していない。ただその言葉を見ているだけであって、観察してはいない。それで現実的な不利益を被るかどうかは知らないが、視える世界は圧倒的に狭くなるのではないかと思う。

 

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僕のブログの第一章はこれで幕を閉じるつもりです。第二章については未定ですが、僕が生きている限りまたこの世界には立ち寄る予定です。楽しみにしていてください。お付き合いいただきありがとうございました。

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(芸術、思想における)自由について

哲学 芸術

前回のアートについての記事が構造主義的(理論とかルールとか)であまりうまく説明しきれなかったので、もっとポスト構造主義的(というか構造主義の批判的)な考え方もしてみようと思います。

まず、自由とは何でしょうか?僕は「ルールに対して抵抗が生じないこと」と、ここまではちゃんと定義できると思います。この定義からすると、そもそもルールという概念が無いところには自由も不自由も存在しません。動物は(しつけとかしなければ)ルールの概念が存在しないので、自分は自由だとも不自由だとも感じません。

となると、自由の定義に含まれる「ルール」とは一体何なのかという話もしておかなければなりません。ルールとは僕は構造とか数学と同義語だと思います。あれ?と思うかもしれませんがちょっとお聞きください。なぜかというと、ルールというのは「~しなければならない」でも「~の時は…とする」でも、全部形式的になっています。というより、形式的なものがルールであるとも言えます。なのでルール=形式であり、数学とか構造とかは形式のことに他ならないので、ルール=数学=構造です。

それで、もちろん一般的に想像するルール(法律とか)は社会的なものであり、これらは社会的な強制力があり、ただの形式とか構造にすぎないと言うと違和感があると思うのですが、今回は特に芸術とか思想などの話をしており、これらの自由は社会的にも保証されているので、社会はあんまり関係ないと思ってください。ルール=構造と考える時、そこに強制力は一切ありません。

それと、言葉のルールとかは構造的に捉えられないのにルール=構造としていいの?というのは鋭いご指摘です。これはまた後ほど触れます。正確には、自由が抵抗を感じるのはルールの構造性である、ということになります。

さて、そうなると自由とは「構造そのものに対して抵抗が生じないこと」になります。そして僕はこれが自由の本質だと思うのです。構造っていうのは、それはもうガッチガチに強固なものです。悪く言えば頭の固い、柔軟性のない考え方です。さらに以前言った通り、構造主義では世界について全然説明しきれないというのも事実です。なので、構造に対して抵抗感を感じるのは自然なことですし、僕もかつてはちょっとした嫌悪感(疑惑?)を抱いておりました。そうすると「もっと自由を!」という気持ちになってきます。

しかし、構造主義っていうのは全然完璧ではないのですが、これは素直にひとつの重要な意見として聞き入れるべきであり、抵抗感はなくすべきです。例えば「幸福を数値で表すなんてもってのほかだ!」と怒りたくなる気持ちは分かりますが、でもアンケートとかで幸福度を一応測っておくのはすごく重要なことです。なぜならこれは客観的だからです。「幸福は数値で表せない」というのは正論ですが、でも客観的に見ようとすることは実際問題としてかなり役立ちます。

もののついでに言っておきますが、僕は構造主義が第一である、と言っている訳ではありません。むしろ人生を「勝ち負け」みたいに安易に二元化するようなことは大嫌いです。「構造主義至上主義者」は反省してください。でも、客観的な基準による「勝ち負け」は、たとえ認めたくない結果だとしても、ちゃんと受け入れるべきです。「ま、負けたけどそれが全てじゃないしな」とクールに構えて生きていきましょう。

脱線しすぎました。自由についての話です。自由は構造に対するただの抵抗感なので、それをなくせば自由とか不自由とか、そもそも気にしなくなります。逆に、自由を強く意識する時とは、構造に対する抵抗が強く生じた時だと思います。となると、僕の予想を言えば、自由を強く主張する人たちはこれからどんどん増えて行くと思います。なぜなら人工知能にしろSNSにしろ全部構造主義だからです。facebookとか正直ふざけていますよね。人間関係を勝手に「 友達か友達じゃないか」の0か1にして、友達のネットワークがどうだこうだ言っておりますが、「友達ってそういうもんじゃないだろ」とつっこみたくなります。でも、「facebookはどうせ構造主義で、それが全てじゃないよな」とさりげなくつぶやいて、クールにやりすごしましょう。

さて、最後にアートの話に戻ります。長くなってすみません。それで、僕はアートはあんまり構造的な意味でのルールとは関係ないんじゃないかな、ということが言いたかったのです。前回の話とは正反対の意見ですね。ルールとかそういう次元の話は関係ないので、アートは自由ともそもそも関係ないんじゃないかな、と僕は思います。これはポスト構造主義者としての感想で、前回の記事が無意味という訳ではありません。芸術にも構造主義で説明できる部分はあります。でも、それで説明しきれない余剰は多々あります。

じゃあどう説明するか?ポスト構造主義関連の話は以前したことがあるのでこの辺の記事だけ貼っておきます。一言で言っちゃうと、芸術のルールは事前にあるのではなく、芸術を生み出した事後的に見出されるものである、ということです。例えば言葉のルールとかって、事前に存在するものではなくてどんどん変わっていく(事後的に見出される)ものですよね。そういう意味で前回のようにルールが事前的にあるという話は、ある意味倒錯です。その批判は免れません。

そして先ほどルールは構造的じゃないよ、と指摘してくださった方。確かにそうなのですが、むしろ自由とはルールの構造性に対する抵抗のことであり、ルールを構造としてみなしてしまうが故に感じる感情のことです。しかもそもそもルールが構造でないと言い切ってしまうと、ルールの意味がよくわからなくなってしまいます。なので正確には、自由とは「ルールの構造性に対する抵抗」というべきなのでしょう。

下の記事は気が向いたら読んでみてください。言語がなぜ構造的じゃないのかは理解できると思います。

futsaludy.hatenablog.com

アートについて

芸術

よく親は子供にこんな矛盾したことを言います。「悪い友達と付き合わないこと。勉強をちゃんとすること。ルールをちゃんと守りなさい。でも、ルールを守ってばかりじゃダメだから、たまにはハメを外しなさい。」言いたいことはなんとなく分かりますよね。でも、これを聞いた子供は困っちゃいます。ルールをちゃんと守れば親の言うことを聞いたことになるのでしょうか?それともたまにはルールを破った方が親の言うことを聞いたことになるのでしょうか?

僕の考えでは、この不可能性を体現することが真のアートの1つの条件だと思います。それは一体どういう意味でしょうか?順序よく話していきましょう。

 

まず、もしも子供がルールを守ったなら、彼は学者になります。例えばモンドリアンは、「水平と垂直の直線のみによって分割された画面に、赤・青・黄の三原色のみを用いる」というルールを守りました。この意味では、彼は芸術家というよりはむしろ美学者です。ある明確な理論の下、美しさを追求した、という観点から見たら、という話です。これは自然科学の学者がある明確な定義や仮説の下、論理的に真実を追求するのとほとんど同じ構造をしています。

 

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一方で、もしも子供がルールを破ったら?アートの文脈で言えば、これは何度か話に出てきているマルセルデュシャンが良い例です。彼は既製品の便器をアートだと宣言しました。これは従来の芸術のルールを破るものであり、芸術の可能性を大きく広げたという意味ではとても価値があります。僕はこのようにルールを破る人を創造者と呼ぶことにします。ただ単に創造者であるだけでは真の芸術家とは呼べるはずがありません(昨今のコンセプチュアルアートではこのあたりが混同されていますが)。

 

しかし、真の芸術家とは学者でありながら創造者であろうとする者のことを指すべきだと僕は思います。これは言語化してしまうと不可能のように思えます。しかし、あの親が矛盾しながらも子供になってほしいと願う姿は、確かに僕たちでも想像することができます。あの矛盾した親の理想の子供こそが、芸術家が目指す姿なのです。何度も言いますが、これは言葉で表現することはできません(言葉にすると矛盾してしまいます)。

 

真の芸術家は学者でもあるので、とても理論的です。僕の考えでは、デュシャンはこの点が甘かったんじゃないかと思います。まず、既製品の便器には理論的に美を追求した形跡が全く見られません。なので僕はあれはただの創造であってアートではないなと思うようになりました。

 

真のアーティストとして一人名前を挙げるとしたら、僕はセザンヌが間違いないと思います。彼が理論的であることは論をまたないです。では彼は創造者なのだろうか?僕はそうだと思います。なぜなら彼は同時に彼の理論に縛られていないからです。

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理論的でありながら理論に縛られていない、それを守っていないとはどういうことか?これは理論とかルールという言葉を使ってしまうから生まれる矛盾です。でも、本当は矛盾なんてしていません。言葉を超えたところに、芸術家はちゃんと矛盾なく存在します。なぜなら、親が理想とする子供の姿は矛盾なく実在するからです。

なかなか難しいですが、この意味で芸術家は定義できるのかもしれません。今後の考察に期待します。

 

注:例えば新しいルールを作って、それを守るようにする、という解決案を思いつくかもしれません。でも、これは実は意味がないです。なぜなら新しいルールに忠実であれば彼はただの学者になってしまうからです。今度は同時に創造者であるために新しいルールを破らなくてはならなくなります。この議論は無限に続いてしまいます。

 

注2:これはゲーデル不完全性定理と関連があるかもしれません。

つまり、今の理論では証明も反証もできない(ルールを守っているとも破っているとも言えない)。

新しい理論で証明/反証できる可能性はもちろんあるが、コンピューターが認識できるレベルの新しい理論では証明も反証もできない場合はあり得る(ルールを守っているのか破っているのかを決定できない)。

やや発展的な話ですが。

 

注3:もう一つの論理的な答えは、親の前ではルールを守っている。でも、親の気がつかないところで暗にルールを破っている。というものがあります。

これはこれで正しいと思います。セザンヌは理論通りに絵を描いているが、暗に理論を破っている。そう言えなくもないでしょう。

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数学と言葉と言葉にされざるもの

哲学 機械学習 人工知能 数学 文学

ここに世界があります。僕たちはまず、数学、物理、化学のような自然科学によって世界を記述しようとします。しかし、それだけでは記述しきれない「余剰」が残るでしょう。今度はこれを言語学、歴史、心理学、文学のような人文科学によって記述しようとします。しかし、それでもまだ世界を記述しきれないはずです。その最後の余剰を言葉にされざるものと呼びます。

つまり世界を「数学」、「言葉」、「言葉にされざるもの」に分解できるということです。ここで数学は自然科学のことを指していると思ってください。同様に言葉もふだん使う言葉という意味よりはもう少し広く使っています。でもあまり深く考えなくてOKです。今回はこれら3つの世界記述をどのように用いるべきかというお話をします。

まず、「数学」について。僕はあらゆる判断において「数学」を重視するべきだと思います。例えばある選択肢AとBがあれば、それらの期待値E(A)とE(B)を計算して、判断の最も重要なひとつの基準とするべきだと思います。なぜかと言うと、この考え方が最も論理的だからです。論理的であるとは、あるいは客観的であるということです。「数学」による判断は、客観的な判断をすることに他ならず、客観的な判断は言うまでもなく重要です。しかし、数学が苦手という人もいると思います。現代ではともかく、将来的には実はこれは心配しなくて良くなるかもしれません。例えば先ほどのAとBの選択問題であれば、これは人工知能を使って期待値計算してもらえばいいのです。人間よりはるかにうまく処理してくれます。

しかし、「数学」では記述しきれない余剰がありました。その余剰を「言葉」によって記述してみましょう。僕はここで「数学」+「言葉」=「知性」だと思っています。先ほどのAとBの選択問題でいえば、数値化はできないけれど、言葉によってAとBのメリット、デメリット、etcを説明できる場合があります。そしてその言葉による説明もまた、AとBの選択基準にするべきでしょう。言葉に関しては、人工知能ではあまりうまく扱えません。人間固有のものだと考えて差し支えないと思います。

最後に、それでもまだ記述しきれない「言葉にされざるもの」があります。これは僕は「感性」のことだと思っています。これもAとBの選択の際に、ひとつの重要な基準として役に立ちます。そしてこれもまた今のところ人間固有のものですね。

よって、あらゆるAとBの選択問題は以上の数学、言葉、言葉にされざるものの3つの判断基準を用いるべきだと思います。

さらに話を進めましょう。実はあらゆる人生における判断の問題は、AとBという選択肢を生み出すという創造的な問題と、今話した通りAとBから選択する選択問題に帰着させることができます。

なので、最後に前者の創造的な問題についても考えてみましょう。これも数学と言葉と言葉にされざるものの3つに頼るべきです。まず、言葉にされざるものとはインスピレーションです。このインスピレーションをもとに、具体的な選択肢の要素を言葉によって具現化します。最後にこの要素を論理的に組み合わせることによって、選択肢が生まれます。これを創造のメカニズムと考えておいても良いでしょう。

すごく簡単にシンプルに言いましたが、これは本当はとても奥の深い話です。しかし、実用的なレベルで言えばこのくらいの話で十分だと思います。僕として最後に(僭越ながら)アドバイスがあるとすれば、以上の3つの能力すべてを向上させるように努力した方が人生うまくいくだろう、ということです(例えば理系の人は言葉と言葉にならざるものも意識した方がいいと思います)。また、哲学的に言えば数学は構造主義に、言葉あたりはポスト構造主義に相当するのではないかと思っています。ともかく、3つの能力をバランス良く育てるという意識を持っていて損はない、という結論だけは出しておきます。

 

追記:一番大事なことを書き忘れていました。

重要なのは、できる限り「数学」と「言葉」によって記述し、「言葉にされざるもの」を感じることです。

例えば絵画の美しさは数学では語れない、と諦めるのではなくて、アンケートをとって人気度を測るとか、数学の世界に落とし込む方法はたくさんあります。これをしっかりやることが「数学」によって考えることです。

同様に、言葉にされざるものもできる限り言葉によって表現するべきです。最初から諦めてしまったら何も始まりません。原理的に不可能と分かっていても、ある程度は可能だったりします。そのある程度をちょっとずつ大きくすることが重要なのだと思います。

それでも手に負えない部分は、感性によって捉えましょう。

すべての視点に立って、そこから本当の本当の意味で最大限のことを得るべきだ、ということが言いたかったです。

記憶のメタファー

文学

見たことのない木がある。いや、しかしどこかで見たような気もする。記憶というものが形成され始めたその原始時代に、砂漠の上に存在していたあの一本の枯れ木だ。その外皮は無数の皺に覆われている(その皺を刻み込んだのはゴッホだろうか)。その形状は肉をそぎ落とされた老人のようだ(まるでジャコメッティの彫刻のように)。そこには生まれながらにして老衰しているというアイロニーがある。それは叡智という名の、生まれたばかりの枯れ木なのだ。

砂漠は常に夜である。しかし地平線からわずかに日の光が見える。風景は印象派の絵画のように、静止しつつも揺れている。その場所はものの初めから、ひとつの時間を永遠にさまよい続けているのだろうか。

いや、そんなことはない。なぜならその木は光に揺れながらも徐々に形を変えつつあったからだ。それはやがて一人の男の影になる。男は立ち上がり、どこかへ向かって歩き始める。

彼はどこへ向かっているのだろうか。砂漠には山もあれば、谷もある。しかし彼はちゃんと道順を覚えているのだろう。その歩みに迷いはなかった。まるでそもそもの原初から、迷いなんて概念は存在しなかったかのように。

どれほどの時間が経ったのだろうか。気がつくと彼は入り口の森に立っていた。そこには岩場がある。渓流もある。深い森の迷宮の入り口が、不吉な食肉植物のように獲物を待ち構えている。

しかし、男は森を見向きもしない。そのかわりに彼は、地面に落ちている石を拾い始めた。奇妙な色や形をした石ばかりだ。まるで積み木のように直方体だったりする。彼はそれを積みあげて、何かを作ろうとしている。一体何を作ろうとしているのだろうか。

男は流木に腰かけて、最後の石をその手で積み上げた。彼が積み上げた石はピアノになった。石はもともとピアノだったのかもしれない。ピアノが風化して、石になっていたのだ。それは彼の手によってもとの形に復元されたに過ぎない。(もしかしたら、この場所はその昔音楽場だったのかもしれない。)

彼の後ろを流れる渓流は、どこか遠い場所からやってきて、どこか途方もなく遠い場所へと流れ続けている。その果てしない徒労がもたらすのは、わずかに認識できるレベルの水音だけだった。男はその音にじっと耳をすませ、それを味わっている。渓流は水音の中から密かに合図を出す。男の指は鍵盤の上に沈む。

それは聞き覚えのある音楽だった。しかしタイトルはどうしても思い出せない。もしかしたらそもそも聞いたことのない音楽だったのかもしれない。この場所では夢の中のように、記憶は常に曖昧だ。それは音もなく形を変え、何者かによって捏造される。

男はひたすらその音楽の世界に入り浸っているようだった。その音楽はただひたすらに繰り返される。しかし、その繰り返しは同じではなくなっている。メロディがずれる。音程がずれる。まるで世界がずれ始めているかのように。

もしかしたら本当に世界がずれ始めているのかもしれない。ともかく、ずれは確実に生じている。そのずれに心を奪われる。しかしそのずれを明確には認識できない。意識はもとの音楽の原型を捉えようとする。あたかもそれが真実であるかのように、それを捉えようとする。しかし、それは決して捉えることができない。かろうじて捉えたものは、すでに原型の残した幻影にすぎない。そして幻影の残した痕跡だけが、残響のように響きわたる。

ずれはどんどん大きくなる。それは明確に認識することができない。しかし、男はそのずれに全神経を注入し、来たるべきずれに全力で身を投じている。

『ずれとは原型の死である。そして原型の死は新しい原型を生み出す。新しい原型はあたかもそれがもとの原型だったかのように振る舞う。それを原型のように錯覚してしまうのだ。しかし、それが嘘をついていることもわかっている。それを嘘と知りながら、それを真実だと錯覚する。この構造は、ひとつの舞台の上の戯曲と同一なのだ。』

 

気がついた時、男はすでにもとの音楽に戻っていた。まるでそれはもとの音楽であり続けたかのように、彼は初めに演奏していた音楽に(それは紛れもなく初めに演奏していた音楽だった)今一度立ち戻り、ゆっくりとそれを弾き終えた。渓流の水音が再び聞こえるようになり、入り口の森は相も変わらず大きな口を開けている。

そして男は立ち上がり、振り返ることもなく、もと来た道を歩み始めた。砂漠には山もあれば谷もある。彼はもちろんもと来た道順を覚えていた。地形は彼の歩みに迷いを与えない。そして水平線からわずかに日の差す、あのもとの場所に戻ってくる。

彼はそこに座り込み、やがて動かなくなる。風景が印象派の絵画のように揺れながら静止し始める。そしてようやく本当に日が暮れ始める。風景が闇に包まれる。

本物の夜が来た。そして目を閉じる。再び目を開けた時、そこには見たことのない木があった。

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